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2012年 05月 12日
致知メルマガよりのご紹介
──────────────────────────────────── 「指揮官は絶対にうろたえてはいけない」 村井嘉浩(宮城県知事) 『致知』2012年6月号 特集「復興への道」より http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html ──────────────────────────────────── 私自身は今回の震災に際して心に決めていたことがあります。 こうした非常時には、大変ストレスがたまるものですけれども、 私は県のトップとして、自分のマイナスの感情を 絶対に外に出さないようにしようと決めておりました。 辛くて涙が出そうになる場面が何度もありましたけれども、 私が高ぶった感情をそのまま外に出してしまうと、 組織が混乱してしまいます。 私が防衛大学校にいた時の校長先生が 土田國保先生という元警視総監の方でした。 土田先生は警視庁の警務部長をされていた時、 贈り物を装って自宅に送られてきた 爆発物によって奥様が亡くなり、 息子さんも大怪我をされたことがあるんです。 土田先生が朝礼で部下からその報告を受けた時の お話をなさったことがあるのですが、 私はそのお話がとても印象に残っているのです。 土田先生は、 「君たちはいずれ、部下や家族の突然の死というものに 直面する機会があるかもしれない。 また有事の際は自分の組織が全滅することもあるかもしれない。 その時に指揮官は絶対にうろたえてはいけない」 と前置きをされて、ご自身のご家族が 事件に巻き込まれた時のことをこのように話されました。 「自分がその報告を受けた時、正直、足がガクガクと震えた。 しかしここで自分が震えているところを見せたり、 うろたえたり、涙を流したりしていると、 部下がどう対応をしていいのか分からなくなってしまう。 だから自分はその時、お尻の穴をくっと締め、 下腹にぎゅっと力を入れて、大きく深呼吸をした。 そしてすっと立ち上がって、 これからどう捜査を進めるか指示を出した。 いざという時の参考にしてほしい」 と。お話を伺いながら私もお尻の穴をくっと締めて、 下腹に力を入れ、大きく深呼吸をしたことを いまでもよく覚えています。 今回の震災では何度かそういう厳しい場面に直面しました。 その度に先生のお話を思い起こして実践したのですが、 不思議と心が落ち着いて冷静に対処できたんです。 そのことも含めて、私が防衛大、自衛隊に在籍して 訓練してきたことが震災では随分役立ちました。 若い時の苦労は買ってでもせよと言われますけれども、 厳しい訓練を受けてきて本当によかったと思います。 もう1つリーダーという立場の重要性を 実感させられた体験があります。 自衛隊の時に私は小さな部隊にいたんですけれども、 不思議なもので、指揮官が代わると 隊員は変わらないのに部隊の雰囲気がガラリと変わるんです。 暗い部隊だったのに急に明るくなったり、 前向きになったり、なんでも議論ばかりして 前に進まない組織になったり、 指揮官の性格がそのまま部隊に反映されるのです。 私はそれを見て、リーダーのあり方は 本当に重要だと実感しました。 2012年 04月 19日
![]() 常陸太田倫理法人会特別ナイトセミナーのご案内 4月24日火曜日 午後6時30分~ 常陸太田市商工会館 講演会は無料です。懇親会は¥1000円で誰でも参加できます。 2012年 04月 11日
長男隆太郎が一浪して北海道大学に入学した。
コツコツ勉強をする性格は、私に似ないで、妻に似てくれて良かった。 私の父に似てくれて良かった。 北大の学生寮(恵迪寮)にも入ることができたので下宿探しもせずに済んで良かった。 私と妻、和寛、陽祐の4人で茨城空港から北海道に隆太郎を送っていった。 というよりも、隆太郎のおかげで北海道への家族旅行ができたといった方が当たっている。 4月1日から2日で行ってきた。 3月31日と4月3日は暴風雨だった事を考えると天候まで味方してくれたらしい。 ![]() 機内にて ![]() 機内にて、偶然同席した窓際の方が太田一高の後輩と分かって話が弾んだ。 ![]() 末っ子陽祐はいつもムードメーカーだ。 ![]() 北大のキャンパスで写真を撮るのを忘れてしまった。羊ヶ丘展望台のクラーク像の前で ![]() 雪景色の中の札幌ドーム ![]() 北海道神宮(御祭神は明治天皇)にお参りをして、感謝を述べた。 2012年 04月 05日
有史以来初めてのホツマサミットが3月24日開催された。
![]() 茨城から参加したのは、私と根本敬久君、鈴木博巳さん、山縣聡君の4人。皇室ゆかりの賓日館が会場だった。 ![]() 歌や演劇があり(aikaさんの美しい歌声) ![]() その後、パネルディスカッションとなった。池田満先生はヲシテ文字で読んでこそヤマトコトバの素晴らしさが理解できる、漢字直訳は偽書とのスタンスを貫いており共感すること大であった。 ![]() 懇親会は会場を朝日館に移して賑やかに行われた。aikaさんと一緒に撮らせていただいた。 翌日は、早朝から二見浦で禊ぎ ![]() ![]() ![]() 準備運動から海につかって禊ぎして出てくるまで30分以上かかった。 人は案外強い生き物だ。私でもやる気になればできたのだ。 ![]() 左の橘の枝は、茨城県筑波山の麓に自生しているふくれミカン(カクの木)、右の桃は日本固有種の鞍居桃の花。 2012年 03月 05日
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致知出版社の「人間力メルマガ」 【2012/3/5】 致知出版社編集部 発行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いつも人間力メルマガをご愛読くださり、 ありがとうございます。 本日の日経新聞朝刊に一面広告を 掲載させていただきました。 http://www.chichi.co.jp/3512.html 「いつの時代にも、仕事にも人生にも 真剣に取り組んでいる人はいる。 そういう人たちの心の糧になる雑誌を創ろう」 この創刊理念のもと、昭和53年に産声をあげた『致知』は、 おかげさまで昨年、創刊33周年を迎えることができました。 読者の皆さまに厚くお礼申し上げます。 * * さて本日は、新聞広告の中で紹介されている文章 「一途一心」 を人間力メルマガ読者の皆様にもお届けします。 ──────────────────────────────────── 「一途一心」 『致知』2012年2月号 総リードより http://www.chichi.co.jp/3512.html ──────────────────────────────────── 一途一心とはひたすら、ひたむきということである。 一つ事に命を懸けること、ともいえる。 あらゆる道、あらゆる事業を完成させる上で、 欠かすことのできない心的態度である。 物事の成就はこのコア(核)なくしてはあり得ない。 イエローハット創業者の鍵山秀三郎氏は、 ある時若い人たちから成功の秘訣を問われ、 「成功のコツは二つある」と答えて白板に、 「コツコツ」 ――と板書されたという。 コツコツは一途一心と同義である。 その根底にあるのは無心である。 心に雑念妄念が入っては、人間、コツコツにはなれない。 人生の先達も一致して一途一心の大事さを説いている。 倫理研究所の創始者、丸山敏雄氏の言葉。 「己の一切を学問にささげ、事業に傾け、仕事に没頭してこそ、 はじめて異常(ふしぎ)の働きができる。 己の大きな向上、躍進、完成は己をむなしくすることである。 身をささげることである。 ここに必ず、真の幸福が添うのである」 森信三著『修身教授録』にある言葉。 「真の“誠”は何よりもまず 己のつとめに打ち込むところから始まるといってよいでしょう。 すなわち誠に至る出発点は、 何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。 総じて自己の務めに対して、 自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。 即ち、もうこれ以上は尽くしようがないというところを、 なおもそこに不足を覚えて、 さらに一段と自己を投げ出していく。 これが真の誠への歩みというものでしょう」 その膨大な著作から小社が 三百六十六語を選んで編んだ『安岡正篤一日一言』。 その中にも教えを凝縮したような次の言葉がある。 「何ものにも真剣になれず、したがって、 何事にも己を忘れることができない。 満足することができない。楽しむことができない。 常に不平を抱き、不満を持って、何か陰口を叩いたり、 やけのようなことをいって、その日その日をいかにも雑然、 漫然と暮らすということは、人間として一種の自殺行為です。 社会にとっても非常に有害です。毒であります」 では、どういう生き方をすればよいのか。 「いかにすればいつまでも進歩向上していくことができるのか。 第一に絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということです。 純一無雑の工夫をする── 近代的にいうと、全力を挙げて仕事に打ち込んでいく、 ということです」 「人間に一番悪いのは雑駁とか軽薄とかいうこと(中略)。 これがひどくなると混乱に陥ります。 人間で申しますと自己分裂になるのです。 そこで絶えず自分というものを 何かに打ち込んでいくことが大切です」 最後に、最近、一読者から、この度の震災で 会社(女川町)も家(石巻市)も流されたが、 「毎月『致知』が届くのを楽しみにし、 主人と『致知』を奪うように読み、『致知』に励まされ、 とにかく前進あるのみとやっております」 というお便りをいただいた。 大きな困難の渦中で『致知』を支えに 一途一心に前に進んでおられる読者の方がいる。 本誌もまた、一途一心に精進の一道を歩みたい。 2012年 03月 01日
今朝の致知メルマガより
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 致知出版社の「人間力メルマガ」 【2012/3/1】 致知出版社編集部 発行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ このメールマガジンでは、皆さまの人間力・仕事力アップに 役立つ言葉や逸話を厳選して紹介しています。 本日は『一流たちの金言2』に収録されている 20の感動エピソードの中から、 特に反響の大きい上月照宗氏(永平寺監院)の 記事をご紹介します。 ──────────────────────────────────── 「お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか」 上月照宗(曹洞宗大本山永平寺監院) 『一流たちの金言2』 http://www.chichi.co.jp/book/7_news/kingen2.html ──────────────────────────────────── 親と子といえば、私には どうしても忘れられない逸話があるんです。 土井敏春という中尉の話です。 昭和16年の安慶の攻略線の際、土井中尉は 部下5人を連れて将校斥候に出たのですが、 敵の地雷に引っ掛かってしまった。 (中略) 一瞬にして5人の部下が 即死してしまったのだから惨いことです。 助かったのは土井中尉一人。 しかし、彼自身も両足と片腕を吹き飛ばされ、 爆風で脳、眼、耳が完全にやられてしまった。 あまりの苦しさに舌を噛み切って自害するといわれますが、 土井中尉は上下の歯もガタガタになってしまった。 死ぬに死ねません。これほど悲惨なことはありません。 どこにいて、何をしているのかもわからない。 声だけは出るものですから、病院に担ぎこまれても、 ただ怒鳴り散らすばかりです。 まだ昭和16年のころでしたし、将校ですから、 病院や看護婦は至れり尽くせりの看護をしたのですが、 本人にしてみれば地獄です。 目は見えない、耳は聞こえない、自分で歩くことも、 物に触れることもできない。 食事も食べさせてもらうのはいいが、 しょっちゅう漏らして看護婦の世話になる。 ただ、怒鳴るだけしかできず、介護に反発しますから、 ついには病院中のだれにも嫌われてしまった。 それで内地送還になり、 最後は箱根の療養所に落ち着くのです。 その連絡がお母さんのところに届きます。 すでに、夫を亡くしていたお母さんは その当時はみんなそうでしたが、 息子のために毎日毎日、陰膳を供えて 彼の無事な帰還を祈っていました。 ですから、息子が帰ってきたという知らせに 母は娘と夫の弟さんを連れて、取るものも取りあえず、 箱根に駆けつけたんですね。 療養所では面会謝絶です。院長にお願いしても、 「せっかく来られたのですが、 息子さんにはとてもあなた方のことはわからないでしょう。 今日はお帰りください」 と聞き入れてもらえない。 しかし、母にとっては待ちに待った息子の帰還です。 何とか一目でいいから会わせてほしいと懇願し、 やっとの思いで院長の許可を取ることができました。 病院に案内されると廊下の向こうから 「わぁー」という訳のわからない怒鳴り声が聞こえます。 どうもその声は、自分の息子らしい。 毎日陰膳を供えて息子の無事を祈っていた 自分の息子の声であったのです。 たまらなくなって、その怒鳴り声をたどって 足早に病室に飛び込みます。 するとそのベッドの上に置かれているのは、 手足を取られ、包帯の中から口だけがのぞいている“物体”。 息子の影すらありません。声だけが息子です。 「あぁー」と母は息子に飛び付いて、 「敏春!」「敏春!」と叫ぶのですが、 耳も目も聞こえない息子には通じません。 それどころか、「うるさい! 何するんだ!」といって、 残された片腕で母を払いのけようともがくのです。 何度呼んでも、体を揺すっても暴れるだけです。 妹さんが「兄さん!兄さん!」と抱きついても、 叔父さんがやっても全然、受け答えません。 三人はおいおい泣き、看護婦も、 たまらずもらい泣きしました。 何もわからない土井中尉はただわめき、 怒鳴っているばかりです。 こんな悲惨な光景はありますまい。 しばらくして、面会の時間を過ぎたことだし、 「またいいことがあるでしょう。今日はもう帰りましょう」 と院長が病室を出ると、妹さんと叔父さんも泣きながら、 それについて帰ります。 しかし、お母さんは動こうとしない。 どうするのか、見ていると、 彼女はそばにあった椅子を指して 看護婦にこういうのです。 「すみません。 この椅子を吊ってくださいませんか」 そして、それをベッドに近寄せると お母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、 それをガバッと土井中尉の顔の 包帯の裂け目から出ているその口へ、 「敏春!」といって押しあてたのです。 その瞬間どうでしょう。 それまで、訳のわからないことを怒鳴っていた土井中尉は、 突然、ワーッと大声で泣き出してしまった。 そして、その残された右腕の人差し指で しきりに母親の顔を撫で回して 「お母さん! お母さんだなあ、 お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか。 家に帰ってきたんか」 と、むしゃぶりついて離さない。 母はもう口から出る言葉もありません。 時間です、母は土井中尉の腕をしっかり握って、 また来るよ、また来るよといって、帰っていきました。 すると、どうでしょう。 母と別れた土井中尉はそれからぴたりと怒鳴ることを やめてしまいました。 その翌朝、看護婦がそばにいることがわかっていて、 彼は静かにいいました。 「ぼくは勝手なことばかりいって、申し訳なかった。 これからは歌を作りたい。 すまないが、それを書きとどめていただけますか」 その最初の歌が、 見えざれば、母上の顔なでてみぬ 頬やわらかに 笑みていませる 目が見えないので、お母さんの顔、 この二本の指でさすってみた、 そしたらお母さんの顔がやわらかで、 笑って見えるようであった。 土井中尉の心の眼、心眼には 母親の顔は豊かな、慈母観世音菩薩さまのように 映ったのに違いありません。 (中略) この話はその現場に立ち会っていた 相沢京子さんという看護婦から聞いたものなのですが、 その相沢さん自身も母親の姿を目の当たりにして、 患者の心になり切る看護というものに目覚めたということです。 道元禅師の言葉にこうあります。 「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、 未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」 「法」とは「仏性」のことです。 ですから、すべての生きとし生けるものには みな仏性があると、根本信条を諭されます。 しかし、道元禅師は、それも修行して 磨きをかけないと本当の光が出てこない。 本当に磨きをかけることによって、 真実の父親、母親になれ、 その真実の人がそのものになり切ってこそ 偉大な力を発揮するということになるのです。 母の愛、そして歌(和歌)の力を感じて頂ければ幸いです。 2012年 02月 27日
先週は講演会ラッシュだった。
2月21日(火)は倫理経営講演会、2月22日(水)は法人会青年部主催の腰塚勇人先生の講演会、2月25日(土)は県北志塾主催の櫻井よしこ先生の講演会だった。 腰塚勇人先生は、現役の教師時代にスキー場で首の骨を折る大ケガをして再起不能、寝たきりになるかもしれないと医者から言われたが、必死のリハビリなどで歩けるまでに復活した。その当時の経験をもとに、今は教師を辞めて、『命の授業』と題した講演を通して命の大切さを伝えている。 ![]() 腰塚さんの事務局をされているのが、何とプレシードの高島亮社長だと聞いてびっくり。高島社長は小林正観さんの講演を何度も企画された方で私も何度も講演会に行きました。 御縁が御縁を呼ぶとはこのことかと感心してしまいます。 2月25日の櫻井よしこ先生の講演会は、日立のシビックセンターで開催された。 ![]() 700人の会場は満席、『日本よ、勁(つよ)き国となれ』と題して今の日本を取り巻く脅威から日本をどう守ってゆくかを話された。 具体的に中国の脅威を述べられ、日本が国家として自立するための方法や歴史認識を学ぶことを話された。 エピソードの一つとして、シベリア抑留者の話をされた。 それは、今のウズベキスタンにナヴォイ劇場というのがあるが、数年前の大地震で他の建物は多数倒壊したがナヴォイ劇場だけはびくともしなかった。その劇場をつくったのは抑留された日本兵達だったのだ。強制労働という奴隷のような環境の中でも当時の日本人は一切手を抜かずに建物を創り上げたのだ。 ユーチューブでもご覧頂ける。 2012年 02月 22日
昨日の倫理経営講演会で活力朝礼の実演をしていただいた株式会社ニシノ清塗工様の出来映えは素晴らしいものだった。
心にスイッチが入るとこうも変われるものかと思えるほどの変わりようだった。 人間の可能性は無限であり、それを引き出すのがリーダーの役目であることを改めて認識した次第であった。 目標参加人数は160人であったが、それを上回る方が出席して下さった。 朝に活路有りをテーマにした講演会だったので、朝起きの実践をすると人生が変わりますよとの主旨の話を講師の先生は話された。 嬉しかったのは、今朝のモーニングセミナーに当会のメンバーで1度もモーニングセミナーに出たことがなかったメンバーが出席してくれたことだ。 セブンアクトの一つに、「気付いたことは即行即止、間髪入れずに実行を」とあるが、まさに気付いたときが一番実行しやすいときなのだ。 それを逃すとチャンスは遠退いてしまう。 今回の倫理経営講演会は、モーニングセミナーに新たに出席者がでた一事で開催した意義があるといえる。 2012年 02月 21日
本日午後6時30分よりグランドスラムカントリークラブにて倫理経営講演会を開催します。
(株)西野キヨシ塗工様の活力朝礼実演と内田文朗普及事業部長の講演です。 2012年 02月 12日
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■「致知随想」ベストセレクション ──────────────────────────────────── 「小さな電気屋の明るい経営術」 山口勉(でんかのヤマグチ社長) 『致知』2012年2月号「致知随想」 ※肩書きは『致知』掲載当時のものです http://ameblo.jp/otegami-fan/ …………………………………………………………………………… 地元に大型量販店がくる――。 こんな話が私の耳に飛び込んできたのは、 町の電気屋「でんかのヤマグチ」が東京都町田市で、 創業三十年を過ぎた平成八年でした。 「噂で終わってくれ」 と願ったのも束の間、近隣にあっという間に 六店もの大型量販店ができたのです。 三十年以上商売をしてきた経験から、 売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれ、 事実、三、四年の間に借金は二億円以上にまで膨れ上がっていきました。 まさに、会社が存続するか否かの瀬戸際です。 生き残るためにはどうするか。 悩みに悩んで私が出した結論は十年間で粗利率を十%上げ、 三十五%にすることでした。 当時大型量販店の粗利率の平均は約十五%で、 地元の電気屋が約二十五%程度でした。 周りからは、 「そんなことできっこない」 という声が 大多数でしたが、それ以外に 生き残りの術は浮かばなかったのです。 私がまず決めたのは、大型量販店のように 商品を安売りするのではなく、 逆に「高売り」することでした。 この頃当店は約三万四千世帯のお客様に ご利用いただいていましたが、 これだけの数では本当の意味で 行き届いたサービスはできません。 そのため商圏をなるべく狭くし、 ターゲットを五十代からの 富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小しました。 そして一万二千世帯のお客様には 他店では真似できないようなサービスを とことんしようと決めたのです。 顧客数を三分の一に減らした分、 月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。 これによって、お客様との深い人間関係ができ、 商品が少々高くても購入してくださる方が 増えるだろうと考えたのです。 訪問の際にお聞きするのは、 お客様が生活される上での ちょっとしたお困り事についてでした。 ひと昔前の日本では何か困り事があると 隣近所で助け合い、支え合うという 相互扶助の精神が息づいていました。 私が着目したのはこの部分です。 家電製品のデジタル化が進む一方で、 地元民の高齢化もどんどん進んでいました。 当然、家電の操作が思うようにできない方も多くなりますが、 お客様のお困り事はそれだけに限りません。 ご高齢、体の不自由な方は買い物に行くのも大変です。 そのため、当店では本業とは無関係なことも 徹底してやらせていただくようにしたのです。 お客様の留守中には植木の水やりをしたり、 ポストの手紙や新聞を数日保管したり、 大雨では代わりに買い物にも出掛けたり。 これらを我われは「裏サービス」と呼び、 お代は一切いただきません。 会社のモットーも 「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」 「お客様のかゆいところに手が届くサービス」 「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」 などに定め、 「どんな些細なことでも言ってくださいね」 とお声がけをしながら十数年、社員パート合わせて 五十名で徹底して取り組んできました。 ただしお客様との信頼関係は 一朝一夕にできるものではありません。 私が粗利率の目標達成期間を一年や二年でなく、 十年としたのもそのためです。 悪い評判に比べ、よい評判が広がるには かなりの時間がかかります。 しかし、この姿勢を愚直に、ひたむきに 貫いていったことで、結果的に 八年間で粗利率三十五%を達成することができました。 その目標達成のため、とにかく無我夢中で 取り組んできた私ですが、 この方向でいけるかなとなんとか思えるようになったのは、 粗利率を十%上げる方針に転換して 三、四年が経過してからのことでした。 経営者として小さな電気屋が六店舗もの 大型量販店との商売競争に勝つために いったん決断はしたものの、 本当にそんな粗利率をクリアできるのか、 お客様は本当に買ってくださるだろうか、と悩み続けました。 「この判断は正しい」 「いや、ダメだ。うまくいかない」 という思いが年中、頭の中で争いをしているような状態……。 しかし、いつも最後には 「この道が正しいんだ」 という考えが勝ちを占めるよう心掛けました。 肝心なのは一度この道を行くと決めたなら、 途中で迷わないことではないでしょうか。 思うように結果が出ないと、 あの道もこの道もよさそうだと目移りしますが、 そのたびに 「成功するまでやってみよう」 と自分に言い聞かせる。 急ぐことはなく、ゆっくりでいいから とにかく一歩一歩を着実に歩んでいくことが大事だと思います。 会社の存続が危ぶまれた大型量販店の出現から十四年。 しかしこの間、赤字決算が一回もないことには 我ながら驚きます。 さらに、一生返せないと思っていた 二億円以上の借金を三年前に完済することができました。 人間はとことんまで追い詰められ、 地べたを這いずり回るような思いで 必死になって取り組むことで 活路が開けるものなのかもしれません。 もしあの時、量販店がこの町田に来ていなければ、 今日のような高売りをしているとは考えにくく、 そう考えると逆にゾッと寒気すらします。 現在の日本も不況が続き、 出口の見えないような状況が続いています。 しかしデメリットばかりに目を向けて 内向き思考になってしまっては、 せっかく転がっているチャンスも逸してしまいます。 いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、 本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、 チャンスが見つかることも少なくないはずです。 現状を打破する発想は、 ピンチの中にこそ生まれるのだと思います。 2012年 02月 11日
2月4日(土),5日(日)は倫理研究所関東甲信越方面研修会が鬼怒川で開催された。
単会の会長と専任幹事が参加する研修会だ。 私は初めて出席した。 会長になって半年、倫理も仕事も順調にやっているはずだったが、その方面会に出席するバスに乗った途端に幹部社員から相談があるので時間を取って欲しいと言われた。 声の様子からすると、かなり深刻な相談のように感じて方面会に向かった。 バスに乗ってしまった以上、会社のことは心に閉まって、倫理の研修に全力を尽くそうと心に決めて研修に参加したが、気に懸かるのは社員のことだった。 会場についてセレモニー後、最初の講話は、100才になられた大久保あい子アドバイザーのお話だった。70分間、立ったままでとうとうと倫理の実践について話された。 もちろん会場の全員が大久保先生よりもずーっと若いのだが、皆が励まされたと感じているのが分かった。 その後、6人の体験発表があった。6人とも素晴らしい内容だった。すさまじい人生を歩んでこられた方ばかりだが、一様に明るい。 明朗、愛和、喜働が万人幸福の道だと倫理では説いているが、まさしくその実践者の方々ばかりだ。 夜の懇親会も楽しく過ぎて、酔っぱらって寝たが、心の片隅には社員のことがあった。 翌日、中西浩本部長の講話の中で、本物になりなさいと叱咤激励があった。 本気になれば現象が変わる。 そう心に決めて、自分の実践の誓いを立てた。 会社では、社員の親になる。家庭では、夫婦親子愛和の生活を送る。 親がしっかりしないから、子供がだめになる。会社では社長が親、社員が子供。 自分の中で、そのことがしっかりと心に定まった瞬間だった。 家に戻ったのは、午後2時過ぎ、一休みして会社へ向かった。 休みでも幹部社員は現場に出ていた。 話をすべて聞ききってやろう、そう思って彼の思いをすべて受け止めることができた。 話の初めは、今日限りで会社を辞めたいということだったが、数時間かけて彼の思いを受け止めてあげることができたとき、彼の心のわだかまりが取れて、また明日から頑張ると言ってくれていた。 自分が変われば相手も変わるのだなと感じた瞬間だった。 そして翌日、朝礼で社員全員に済まなかったと詫びた。そして、改めて心のすべてをさらけ出して、良い会社になるように、良い人生が送れるように一致団結してゆこうと呼びかけた。 立場は倫理法人会の会長でも実践の伴わない自分に気付かせてくれた方面会であり、社員であったと思う。 それは私にとって絶妙のタイミングで起きたことだった。 苦難は幸福に入る狭い門なのだ。 2012年 01月 29日
2012年1月28日は、大久保あい子先生100才の誕生日でした。
水戸市倫理法人会、宮田久雄会長の音頭で大久保あい子先生120才をめざす会が催された。 百才の誕生日を祝うと共に120才まで長生きしていただこうとの思いで開催されました。 ![]() 大久保先生は「忙しい」「疲れた」を決して言葉にされない。 常に前向きの言葉を発し続け、自分が学び続けなければ子供が成長しないと信じている。 子供さんは皆さん立派な方で60才を過ぎているが、今でも子供達の成長を願って倫理の実践を続けている。 この偉大さは、当たり前の日々を丁寧に生き続けて来られた偉大さであり、まさに一灯照隅の生き方だ。 国の宝、日本人の宝、人類の宝だ。 2012年 01月 28日
今朝のメルマガは昨年10月21日に行われた第2回社内木鶏全国大会で事例発表に先立ちスピーチをされた浦田理恵さんのスピーチの紹介だ。
※人間力を高める2012年に──。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 致知出版社の「人間力メルマガ」 【2012/1/28】 致知出版社編集部 発行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かかる費用は社員一人につき、1万円。 かかる時間は毎月たったの1時間――。 『致知』を使った社内勉強会「社内木鶏(もっけい)会」が いま、全国600社以上の企業などで実施され、 大きな成果をあげています。 昨年10月に東京で1,200名以上の方々にご参加いただき、 開催された「第2回社内木鶏全国大会」では、 浦田理恵さん(株式会社アソウ・ヒューマニーセンター勤務)に 特別発表をしていただきました。 浦田さんは、来年の「ロンドンパラリンピック・ゴールボール競技」に 出場する日本代表選手でもいらっしゃいます。 弊社より「感動奨励賞」を授与させていただいた 浦田さんのスピーチをご紹介いたします。 ……………………………………………………………………………………………… ◆目が見えないことが、いつしか「苦しみ」ではなくなっていた (株式会社アソウ・ヒューマニーセンター勤務 浦田理恵さん) ……………………………………………………………………………………………… 皆さん、こんにちは。 私は九州の福岡からきました、 アソウヒューマニーセンターの浦田理恵と申します。 皆さん、お分かりにならないかもしれませんが、 実は私は視覚に障害があります。 活字を見ることも、相手の表情を見ることもできません。 私が視力を失ったのは、教職の免許を取るために 福岡の専門学校に通っていた20歳の時でした。 卒業を間近に控えた頃、網膜色素変性症と診断され、 僅か3か月で左目の視力を失い、 右目もわずかに光を感じるくらいまで 低下してしまったのです。 何もできなくなった自分が生きている意味があるのだろうか。 いろいろと悩み苦しみ、どん底にまで落ち込みました。 独り暮らしをしていた私は 誰とも会わずに家の中に引きこもり、 熊本の両親にも友達にも真実を伝えられないまま、 一年半が過ぎていきました。 失明したことを思い切って家族に伝える決心をしたのは、 数年ぶりに熊本に帰省した時でした。 駅の改札口まで迎えに来てくれた母は、 私のぎこちない仕草を見て 最初はふざけていると思ったそうです。 「お母さん、私はもう何も見えん」。 近寄ってきた母にそう率直に打ち明けると、 母はその場で泣き崩れてしまいました。 でも、この時、自分の思いを一気に吐き出せたことが、 一つのステップになったと思っています。 私がどんな状態になっても絶対に見捨てずに 温かく包み込んでくれる家族がいるのが どれほどありがたいかを、しみじみと感じたからです。 人生に絶望していた私が、現在、前向きに頑張れるのは この安心感のお陰です。 さて、前置きが長くなりましたが、 私は縁あって2年半前、 ヘルスキーパーとしてアソウヒューマニーセンターに入社しました。 その一方、女子ゴールボール競技のアスリートとして 厳しい練習に励む毎日を過ごしています。 当社で社内木鶏会がスタートしたのは昨年の11月でした。 最初 「木鶏会をやるから朝7時に集合ね」 と上司から言われた時は、 まるで他人ごとのように聞いていました。 私が所属するシーズアスリートには視覚障害者が4人いますが、 活字を普段目にすることのない私たちにとって、 木鶏会への参加はないものと考えていたのです。 しかし、上司や周りの社員の方々が私たちの成長を考えて、 何とか一緒にできないかと、 忙しい中時間を作って『致知』を読んできかせてくれたり、 PCにおとしてメールで送って音声ソフトで読ませたりと、 できる方法を一緒に考えてくれました。 できない理由を並べて甘えるのではなく、 一つでもできる方法を考え、トライすることが 成長の第一歩であると教えていただいたのは、 とてもありがたいことでした。 木鶏会に参加することで、 普段情報が入りにくい私は多くの刺激を受けています。 『致知』7月号の中では 「代受苦者(だいじゅくしゃ)」といういうワードに出会いました。 「災難や苦しみを自分の代わりとなって受けてくれる人」 という意味で、本来どこで起きてもおかしくはなかった 3月11日の大震災を、 東日本の方々が私たちの代わりに受けてくれた。 そう思うととても他人ごととは思えませんでした。 その時の話し合いの中で、ある方が私に向かって言われました。 「浦田さん、私の代わりに見えない不自由さを 感じてくれてありがとう」 そう言われて私はあることに気づきました。 最初は見えなくなって怖くて不安で悔しくて どうしようもない日々を過ごしていた私が、 沢山の温かな励ましや、ハード面・ソフト面のサポートのお陰で、 今は見えないことを忘れてしまうほど 毎日笑顔で過ごさせていただいていたのです。 周りの真心でいつしか目が見えないことが 「苦しみ」ではなくなっていたのです。 このようにお互いに支え合う仲間がいるのは 本当にありがたいことです。 木鶏会では普段同じ職場にいても あまり話したことがない人とも コミュニケーションがとれます。 その人の名前と声を一致させることに加え、 自分にはなかった考え方に出会い、 仕事でもプライベートにおいても 当事者意識を持っていかに自分の行動レベルに 落とし込んでいくかのヒントを得ることができます。 そして、何よりも、参加者同士がお互いに共感しあい 一体感を感じることができるのが 素晴らしいと感じています。 私はアスリートとして昨年のアジア大会女子ゴールボール競技で 銀メダルを獲得し、ロンドンパラリンピックへの出場権を 手にすることができました。 これからの練習が勝負です。 その意味で私にとって月1回の木鶏会は、 自分の気持ちをリセットし、 やる気を高める大切な場となっています。 社内木鶏の美点凝視の精神により私も笑顔、みんなも笑顔。 笑顔のキャンドルサービスが会社中、 そして日本中に広がっていったら、 どんなに素敵な社会になるだろう。 そんな夢を描きながら、 これからも前向きに頑張っていきたいと思います。 本日はご清聴いただき、ありがとうございました。 今日この文章を読んで、あの日の浦田さんのスピーチから受けた感動を改めてかみしめることができました。 人生の途中で目が見えなくなることの恐怖、絶望。 自分に置き換えたときに浦田さんのように立ち上がれるだろうかと思ってしまう。 よくぞ元気に生きてくれている。 あなたが元気でいてくれることが、どれほど多くの人々の励みになっているか。 そう思うと、自分も元気で生きることで、身の回りの人が明るい気持ちでいられるのだなと、あだや人生をおろそかにはできないなと思い返すのでした。 2012年 01月 25日
今朝のモーニングセミナーは若槇正子法人スーパーバイザーの講話だった。
演題は、「よっぽどの縁」 人は一生にどれだけの人と出会えるだろうか。 そして人生のある時期を一緒に過ごす人がどれだけあるだろうか。 そう考えると、親子、兄弟、夫婦、社員、お客様との御縁はよっぽどの御縁なのだ。 倫理法人会の仲間もよっぽどの縁だ。 モーニングセミナー後、朝食を食べて、水木電気工業さんに出前朝礼に行きました。 倫理法人会では、活力朝礼を勧めています。 社員さん一人一人が、元気を出して、充実した一日を送っていただきたい、会社の業績も伸ばしたいと経営者の皆さんは考えていることでしょう。 しかし、どこから始めたらいいのかよくわからないと思っていることでしょう。 そのヒントが、ここにあります。 2月21日には、倫理経営講演会を開催します。 その際に、活力朝礼の実演を行います。 どなたでも出席できますので、ご参加下さい。 2012年 01月 22日
竹田製菓のタマゴボーロは誰でも一度は食べたことがあるだろう。
竹田製菓の社長は竹田和平さん。 竹田和平さんは個人投資家としても有名な方らしい。 私と竹田氏の出会いは、ありがとうを年間100万回言う運動をされていることでした。 小林正観さんと同じ考えを持っている人がいるんだと思い、私もありがとうを年間100万回言い続けている。 そんな竹田和平さんが社長を務める竹田製菓のタマゴボーロの製造過程を昨日のテレビでやっているのを何気なく見ていた。 すると、生地を球状にして焼くときに、何と子供100人の声で「ありがとう」をテープに吹き込んで流し続けているそうだ。タマゴボーロは出来上がるまでに100万回の「ありがとう」を浴びるのだそうだ。 不思議なことに、それをやってから売上が25パーセントも伸びたとか。 「ありがとう」には不思議なパワーがあるのですね。 究極の欲張り人間は「ありがとう」を言い続けているのですね。 ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう 2012年 01月 22日
今年の常陸太田倫理法人会の倫理経営講演会は2月21日にグランドスラムカントリークラブで夕方6時30分から開催される。
私が会長になって初めての倫理経営講演会だ。 沢山の人が来てくれると嬉しいな。 ![]() 「純粋倫理とは」の解説文 ゆっくりと10回読んでみてください。 自分をとりまく多くの人々や、物や自然との関わりなしには生きられない私たちです。 そこには、おのずから社会生活の規範が生まれます。 人と人、人と物、人と自然の間にある道。人間の行なうべき道筋。くらしみち。 ――それが純粋倫理です。物の世界に「物理」という法則があるように、人間には「倫理」という法則があるのです。 「こんなときどう行動すればいいのだろう」「どんな姿勢、どんな心がけが幸福を招くのか」「人間関係をよくする秘訣はあるか」「人生の岐路にたったときの心構えがほしい」「この苦しみをどう受け止めればいいのか」……そんな問いに答える人生の指針、道しるべとして、人のあるべき道を純粋倫理は示します。 それはただ知っているだけでは意味がありません。実際にやってみることで、正しさがわかるもの。実生活に役立ててはじめて、「なるほど、倫理とはこういうことか」と腑に落ちてくるものです。 人間生活の規範といえば、一般に「道徳」という言葉を連想します。もちろん道徳は、先人の叡智の結晶として尊ぶべきものですが、反面、特定の時代や民俗にしか通用しないものだったり、「~べし」「~しなければならない」と規制ばかり強くて、窮屈な面があります。また、それを守ったからといって、必ずしも幸福になるとは限りません。 純粋倫理は自分や人を縛るものではなく、時代や場所、周囲の環境を問わず、いつでもどこでも誰でも実行できるもの。 しかも、それを守って生活していくと必ず幸福となる。徳と福が一致する。ここに大きな特徴があります。 純粋倫理は、丸山敏雄(倫理研究所の創立者。1892~1951)により発見され、提唱されました。丸山敏雄の遺した「万人幸福の栞」には、そのエッセンスが17の項目に分けて凝縮されています。 子供と親の目に見えないつながり、働くことの意味、肉体と精神の関係、捨てる極意、苦しみを幸福に転じる心の持ち方――どれも日常生活にピタリと結びついた暮らしの指針であり、宗教や学説をもこえた自然の法則です。 2012年 01月 19日
12月10日にホツマ観光研究会に出席したことは以前書いた。
1月11日に正式にホツマ観光研究会に入会した。 会員は、一般会員(年会費2000円)と研究会員(年会費5000円)に分かれており、毎月1回の勉強会に年間を通じて受講する意志のある者を研究会員とするとしている。 迷わず研究会員で申し込んだ。 正月に箱根駅伝で東洋大学が優勝したこともあって、学食ではカレーライスが400円のところ、350円で食べられた。 12月は特別講師の池田満先生だったが、通常は“いときょう”こと一糸恭良(いとやすよし)さんが講師で勉強会を開いているようだ。 いときょうさんは、我々と同じ中小企業の経営者である。 初めて話を聞いたが、よく勉強されている方だなと感じ入った。 とても分かりやすい授業だった。 約90分の授業の後は懇親会があるのだが、後ろ髪を引かれる思いで家路についた。 さて、ホツマ観光研究会主催で3月24日に伊勢市二見浦でホツマサミットが開催されるそうだ。25日には伊勢神宮の正式参拝もセットされているとのこと。 開催要項を見ると、出席者の面々が凄い。知る人ぞ知る方々ばかりだ。 そのことを常陸志塾で話したら、私のほかに3人が一緒に行くことになった。 実に楽しみだ。 二見浦はアマテルカミが禊ぎをしたところだが、今回の行事のオプションとして禊ぎもできるらしい。 2012年 01月 16日
毎月一回、もうすぐ100才を迎える先生(女性)に書道を習っている。
その方も素晴らしいが、今日のメルマガも素晴らしい。 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」 ┃□□□ ┃□□□ 2012/1/15 致知出版社( 毎月1日・15日配信) ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┌──┬─────────────────────────────── │112 │使命に生きる人の迫力―日野原重明先生のこと └──┴─────────────────────────────── 『致知』の3月号の特集テーマは 「常に前進」です。 年末に書斎の整理をしていましたら、昔のノートに こんな言葉が記してありました。 ▼あなたの人格を磨き、人間性を豊かにする方法-それは尊敬する人を 作ることである。 ▼節目で気づくべきは、「いつでもこれからだ」という決意の時である。 間違っても怒りや、憎しみや悲しみのタネをまいてはいけない。 どなたの言葉かは記していませんが、この2つの言葉は、 人が常に前進するために欠かせない言葉ではないかと思います。 尊敬する人がいなくなった時に、人の成長は止まりますし、 また、誰の人生にもいろいろな節目があるものですが、 その時に怒りや憎しみや悲しみにとらわれていたら、 前に進んでいくことはできません。 節目はそういうマイナスの感情に溺れている時ではなく、 さあ出発だと決意する時だというのです。 その通りだと思います。 この2つの言葉の意味するところをかみしめて、 今年も前進していきたいと思います。 『致知』の2月号には、聖路加国際病院の日野原先生がご登場され、 「我が命、燃焼す」のタイトルで、旧知の都倉亮さんと対談されていますが、 日野原先生は100歳のいまも前進されています。 都倉さんと日野原先生は、都倉さんのおばあさまが先生のお知り合いで、 その縁で先生は都倉さんの結婚式の媒酌も務められています。 その都倉さんが平成20年に中咽頭ガンになり、 それが左鎖骨上のリンパ節に転移し、現在も都倉さんは入院中ですが、 その合間をぬって、対談場所の聖路加国際病院に、 奥さまと一緒に駆けつけてくれました。 それだけに大変、含蓄の深い対談となりました。 この日野原先生との対談が厳しい状況にある都倉さんを励まし勇気づけ、 未来に希望の光を灯すものになることを祈らずにはおれません。 私自身もこの程、100歳の日野原先生のお姿と言葉に、 衝撃に近い感動を覚えました。 それは昨年末、NHKで放映された、先生のドキュメント番組のことです。 先生はその日インフルエンザにかかり、39度をこす身でありながら、 どこかの学校の講演会に熱を押して登壇し、役目を果たし、 顔を真っ赤にしながら帰宅されたのです。 100歳の先生が39度の高熱を出している、 悪いが講演会は延期して欲しいといっても、誰も批難する人はいないでしょう。 しかし、先生は「約束だから」と高熱を押して、出かけられた。 この事実に、私は改めて、先生の使命感の強さを思い、 形容のできないほどの感動と畏敬の念を覚えたのです。 使命感は単なる言葉ではなく、先生の人生のバックボーンそのものになっているのです。 その日野原先生が対談の中で、こう言われています。 「統計によると、私の人生はあと1年足らずしかないそうなんです。 だから自分には死の足音が確かに聞こえてくるように思う。 にもかかわらず、私は常に“上を向いて歩こう”という気持ちを持っている。 とにかく、私の命は神様から与えられたものです。 その与えられたものに対して自分自身がどこまでも充実して、 感謝して生きていきたいと願い、全力疾走を続けています」 人生はいつもこれからが本番、ともいわれています。都倉さんに対しても そう語られています。 先生は現代の覚者です。 こういう人の姿を見、気を共有し、言葉にふれていくだけでも ご利益があるというものです。 1月28日の新春大会、皆さんとお目にかかれるのを楽しみにしています。 2012年 01月 12日
長女郁恵が成人式を迎えた。1月8日が常陸太田市の成人式だった。
武田鉄矢の母親イクさんにあやかって、また郁々と育つように20年前に郁恵と私が命名した。榊原郁恵も明るくて感じが良かったので、そんな子に育ってもらいたかった。 名前の通りに育ってくれた気がする。 ![]() 家族で、私の父と長男は不在。 ![]() 末っ子にはいつも明るい雰囲気がある。陽祐、太陽の明るさだ。 ![]() 初めて子供を授かったとき、五体満足で生まれてきただけで有り難かった。 言葉を覚え一人歩きして少しずつ物事を覚えてくると、親は次から次へと要求を高くする。 自分が育った時を忘れてしまうからだ。 2012年 01月 06日
平成24年壬辰、新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。 元日に初日の出が拝めなかったので、1月3日に今年初めての日の出を拝しました。 ![]() 命の元、日本人は大昔から太陽を拝んできました。 ![]() 長男隆太郎今年こそはと猛勉強中、次男和寛もうすぐ中学生だ。 ![]() 1月2日には初めて一般参賀に行ってきました。 ![]() 妻、長女、次男、三男と ![]() 天皇陛下のお言葉 ![]() 靖国神社にも参拝してきました。 ![]() 小林正観さんの著書『心に響いた珠玉のことば』の最終章から 『天皇のことば 私の体を通してからにしてください』 毎年、元旦の早朝・・・・・ 『四方拝(しほうはい)』 ・・・・・と呼ばれる皇室行事が執り行われます。 この際、天皇は 東西南北、四方の空に向かってこう礼拝するのだそうです。 『もし今年、 日本に災いが降ってくるのであれば、 まず私の体を通してからにしてください』 私は『四方拝』の言葉自体は知っていましたが、 その実態を本日はじめて知りました。 誰かが言っていました。 外国人に、日本の誇れる文化を一つ申すとすればそれは何か。 それは「天皇」であると。 日本人の多くは、なるほどと感じてくれるだろう。 しかし、その根拠は古事記、日本書紀ではわからない。 日本固有の文字で書かれたホツマツタヱ、ミカサフミといったヲシテ文献にこそ、その理念が記されているのである。 2011年 12月 29日
『縄文文字ヲシテを 復活!』は池田満氏のブログのタイトル。
私は池田満先生と出会って、初めてホツマツタヱの本質を教えていただいたと感じている。 古語辞典にも載っていない言葉を現代語に意訳するのは並大抵のことではない。 当然、ホツマツタヱの漢字直訳では本当の意味の半分も伝わらないこともあり得る。 そのことを理解できているホツマツタヱ研究者は少ない。 それはさておき、 12月27日の投稿のタイトルは(女性「宮家」のことなど。『ホツマツタエ』などヲシテ文献から見ての事々。) 本質を突いてると思うので転載させていただきます。 宮家の事など、皇室のことがいろいろと言われてます。 もっと、 本質からの見つめ直しをしてからの事で、 と、 思います。 ・ 『日本書紀』や『古事記』など、漢字文献で見ますと、 神武天皇の征服王朝説にと、なってしまっています。 今現在の状況、震災や原発事故の後の対応など、 征服王朝説では、我が国の国柄は説明不可能ですね。 これは、そもそもの征服王朝説は大間違いだったことが、ヲシテ文献で明瞭になりました。先ずもって、これを直さねばなりません。 征服王朝説は漢字文献からの誤訳などでの由来の大誤りで、本来は、恵み柔しの「トのヲシテ」理念を根底にしての立国だったと。 ・ ・ また、皇位の継承につきまして、 過去の国難の事を、ヲシテ文献でひも解いてみましょう。 6代目オモタルさん、カシコネさんの御世の末期に、 クニ(国家)が乱れました。作物の減収と、お世継ぎに恵まれなかった相互の悪影響からでした。 7代目には、北陸地方の名君で名高いアワナギさんの、ご長男のタカヒトさん(後のイサナギ)。 と、東北・関東で名君のタマキネさん(トヨケカミ)の娘さんのイサコヒメ(後のイサナミ)とに、皇位を継いで戴くことになりました。イサナギ、イサナミさんは全国各地に教え導きの巡行をなさいまして、国家を立派に再建なさいました。 拠って、イサナギさん、イサナミさんは、特にフタカミと尊ばれて呼ばれます。 ・ わが国の伝統とは、縄文時代の前期の頃に、「トのヲシテ」を建国の理念として国家の樹立を成し遂げた事実だと思います。その後の経済状況の変化など社会の構造変化を、「トのヲシテ」の理念のもとに、これを実に意識に登ることなく知らずに国家運営をしてきていたのでした。 ・ ・ 武烈天皇のあと、 混乱した世の中をどうするか? 26代継体天皇は、遠い血筋をたどって, ご即位の事を、お願い申し上げたのでした。 それで、普通の時期ではないため(大混乱のため)、 何年も都にはお入りになるのを躊躇(ためら)われられたのでした。 ですが、継体天皇はちゃんと時節を踏まえ、ミチをお立てになられましたのでした。 ・ わが国の伝統とは、本来このようにあるのだと思います。 思えば、 2代目アマカミのクニサツチも、 ヱのミコトの後を受けて、弟のトのミコトが皇位を受け継ぎました。 皇位とは、 お仕事なんだと思います。 この、本質を見極め知ってからの、お話だと思います。 ・ ・ また、追加して言うなれば、アマテルカミもご心配をしておいでになられました。 サルタヒコに、 カンタカラを授けて仰っておられたことなど、 諄々と思い返すばかりの事柄で御座います。 単純な決め事のマニュアルの様なことでは、返って変てこなことになる杞憂を恐れるばかりです。 マニュアルは最低限の決め事でして、 そんなものは、原発事故に遭遇して、まったく役にも立たなかったのでした。 安定ヨウ素剤の配布のような簡単な事でさへも、90%出来得ないのでした。 これが、現実です。 ですから、 そんな事であろうかと、 お見通しに、なられておられた、アマテルカミは、 サルタヒコにも、お託しになられたのですね。 ・ 民主主義の本来の原点に立って、 どうあるべきか? その、理由をみんなに解ってもらってから、 そのあとに、 国民の審判を得るのが、 もっとも、ちゃんとした進め方だと思います。 「トのヲシテ」は本来の、二人称から発生した原則に基づくものです。 本当の意味での「民主主義」の根底原理なのだと考えます。 2011年 12月 27日
常陸太田倫理法人会では12月22日にクリスマスパーティをグランドスラムCCで開催した。
総勢48名の参加者だった。 植田専任幹事の企画・運営は多彩な演出で大いに盛り上がった。 受付は大森智子幹事と木村郁郎副事務長 ![]() 司会進行はかわいらしい石原副専任幹事 ![]() 倫理法人会会員の佐藤ご夫妻による生演奏、ハナミズキとマイウェイを熱演、多芸多才だ。 ![]() じゃんけんゲーム、因みにサンタは私です。 ![]() 突然、20才以上の女性が前へ並びました。 ![]() サンタの私が目隠しをされて、一人一人と握手、15人の中から私の奥さんを当てろと。 ![]() 日頃の実践が試されました。悩みに悩んだ末に指名したのはわが女房でした。 ![]() もしはずれていたらと思うと、ぞっとします。 当たって良かったーーーーー。 皆さん、奥さんの手を最後に握ったのはいつですか? 最後はキャンドルサービスと詩の朗読でエンディングでした。 ![]() 詩の内容は、見えないモノにこそ大切なことがあるといったことでした。 本当にそうですね。 2011年 12月 24日
12月21日に今年1月1日から数え始めた『ありがとう』が100万回になりました。
今年100万回のありがとうを言うと、来年100万回のありがとうを言わせる現象が起こると小林正観さんは仰っていた。 私は昨年100万回を達成できた。 私の実験結果として、ありがたいと思える現象がたくさん、たくさん確かに起こった。 それこそ100万回ぐらいありがたいと思えることがあったと思う。 言葉の力は偉大だ。現象を引き寄せる力があるのだ。 これは斎藤一人さんも言っている。『成功脳』を読むとその仕組みを解説している。 生前、小林正観さんは3000万回以上の『ありがとう』を言い続けたそうだ。 1年に100万回とすると30年以上言い続けたことになる。 私はカウンターで数えはじめて375万回になった。 まずは1000万回を目指して来年も続けようと思う。 こんな有り難いことをやめるなんて出来ない。 2011年 12月 19日
12月18日のメルマガより
──────────────────────────────────── ■「致知随想」ベストセレクション ──────────────────────────────────── 「一日一生」 橋本喬(観光企画設計者社長) 『致知』2003年8月号 「致知随想」より ──────────────────────────────────── 十年前の十月、いつも通り出社した私を 待ち受けていたのは東京地検特捜部だった。 故・金丸信元自民党副総裁の脱税事件を契機に 明るみになったゼネコン汚職。 土建国家・日本の暗部にメスが入り、 収賄罪で県知事や自治体の首長、 ゼネコンの役員クラスが多数逮捕された。 私もその一人である。 大成建設の営業本部長を経て副社長になった矢先、 宮城県発注工事にからみ、県知事および 仙台市長へのヤミ献金容疑が発覚。 私と仙台支店長と副店長が贈収賄で起訴された。 営業本部長はゼネコンの営業活動の総元締めであり、 必要な資金はすべて私の管理下に置かれていた。 支店長と副支店長が 「知事と市長に少し何かしなくては」と言った時、 私は「そうだね」と答えた。 それが業界の通例だったし、そうしなければ 他社から取り残される。 また、われわれだって贈収賄が 刑事罰に相当することは百も承知。 あくまでも「選挙資金」として渡したのであって、 相手が私的に使っていたなど知る由もない。 「選挙資金と言っても、それに対する見返りを 期待していたでしょう? 何も期待せずに金を出しますか」 取り調べの席で検察は言った。 「そりゃ出しませんな」 と答えると、私は即刻逮捕された。 自分が金を渡してもいなければ、いつ渡したかも知らない。 相手が選挙に使わず、勝手に私腹を肥やしていただけだ……。 言いたいことは山ほどあった。 だが、腹を括った。 すべてを受け入れることにした。 拘置所での生活は、判で押したように 規則正しい生活だった。 七時起床、九時就寝。 十五時から体操で、三度の食事の時間も決められていた。 よく、所内の飯は「くさい飯」といわれるが、 慣れればそれほど不味くもなくなった。 週に三度は風呂に入れたし、半月に一度は床屋にも行った。 とりたてて生活に不自由はなかったが、 「ここは別世界だ」と痛感することは多かった。 初めこそ罪状認否の取り調べもあったが、 早々と罪を認めたら特にすることもない。 独房の中で、これまでのことを考えてみたこともあった。 早大の建築学科を卒業し、 大成に入社したのは昭和三十三年。 東京タワーが完成した年だった。 戦後日本の復興の象徴ともいえる高層建築物を数多手がけ、 四十九歳で取締役東京支店長、 営業本部長を経て副社長になった時は、 「大成初の昭和二桁の副社長」と言われた。 当然、耳に入ってくるのは「次期社長」の声――。 狭い部屋で思いを巡らせても、すぐに行き詰まってしまう。 それに考えたところでどうしようもないのだ。 有り余る時間で、私はやたらと本を読んだ。 拘置所にいた四か月間で百冊以上読んだだろうか。 家族からの差し入れも、本が一番嬉しかった。 特に好んで読んだのは、徳川家康や織田信長などが 登場する長編歴史小説。 別に自分の姿を重ね合わせたとか、 彼らの生き様に鼓舞されたとかいうのではない。 ただただそのストーリーに集中し、没頭していた。 何も考えなくて良かった。 拘置所で年を越し、裁判も一段落した一月下旬、 いよいよ出所の時がきた。 ああ、この生活も終わったんだ。 事態を冷静に受け止めている半面、 誰かに会ってむしょうに話をしたかった。 この四か月、限られた面会時間に家族や弁護士としか 話ができなかったことへの反動だろう。 門をくぐると大勢の人たちの姿が見えた。 私は驚いた。そこにいたのは大成建設の仲間たちだった。 「ご苦労さん」 「お疲れ様でした」 次々と皆に労いの言葉をかけられ、 私は急に現実の世界へ戻ったような気がした。 会社から用意された車に乗り自宅へ行くと、 そこにもたくさんの同僚たちが私の帰りを いまや遅しと待ち受けていた。 その輪の中に入った時、 「分ってくれる人はたくさんいる」と心から思った。 人生は「一日一生」である。 前から好きな言葉だったが、事件を契機に その思いはますます深くなった。 人生は一日の積み重ねであり、一日を全力で生きて、 初めて人生をまっとうすることができる。 時には躓き、誤解もされる。 私も逮捕され、社会に大きな影響を与えた。 失ったものも多く、私の肩書きと付き合っていた人たちは、 潮が引いていくように離れていった。 しかし、「人間・橋本喬」と付き合ってくれていた人たちは、 私を支え、励まし続けてくれた。 現在籍を置く観光企画設計社の創業者であり、 会長である柴田陽三氏とは二十数年以上の付き合いになる。 ホテルオークラをはじめ、 全国のホテル設計を請け負っている柴田氏の事務所は、 大成時代の取り引き先だった。 「絶対にいい仕事をして、お客様のお役に立ちたい」 という一心で仕事に取り組んできた私の姿勢が、 柴田さんには伝わっていたのだ。 事件が一段落した時、 「ちょっとうちの会社を手伝ってよ」と言って、 私を副社長として迎え入れてくれた。 いずれ訪れるであろう死の床で、 これまでの人生を振り返った時、 私は幸せだったと思いたい。 結局最後に自分を満足させるのは、 「人様のお役に立った、人様に必要とされた」 という思いだけである。 出世をして金持ちになっても、 死に際に誰も来てくれないような人生は悲しい。 毎日毎日人に優しく、親切に、お役に立つ。 私はそういう人生を送りたい。 2011年 12月 12日
12月10日の県北志塾第3回は納棺夫日記を書いた作家青木新門さんだった。
![]() 映画『おくりびと』の原作を書いた人。 納棺夫日記を25才の本木雅弘さんが読んで、いつかは映画にしたいという思いが10数年の時を経てつくられたが原作者の意図とは食い違ったためテロップには原作者名は出ていない。 『おくりびと』は第81回アカデミー賞外国映画賞(2009年2月22日)受書作品だ。 私も映画館で久々に見た映画だった。 青木新門さんは昭和12年生まれ、両親と昭和17年に満州に渡る。昭和20年の敗戦時、新門さん8才、妹5才、弟1才、父は行方不明、母は発疹チフスで瀕死の状態。 弟はすぐに亡くなり、母も行方しれず、妹と2人で日本人収容所にいたがある日、妹が亡くなる。8才の少年は妹の亡骸を抱いて死体を焼いている河原へ運んだ。新門さんは捨てたと表現していた。 ![]() この写真は、長崎で昭和20年の9月に撮られたもの。弟の亡骸を背負って、河原の焼き場に立っていた少年を米軍兵が撮っていたのだった。戦後、開かれた写真展で新門さんがこの写真の前で号泣されたそうだ。自分も同じことをした記憶が蘇ったからだ。 瀕死の母と巡り会い、やっとの事で帰国。富山県の父の実家に戻ったが、嫁舅の仲が悪く母は出て行った。祖父、祖母に育てられる。一門の本家だったが、祖父祖母は仕事をしたことがないらしく蔵にあったお宝を売って育ててくれたとのこと。 新門さんが大学受験の時には、最後のお宝を売って受験代を捻出したそうだ。早稲田大学に合格した新門さんを待っていたのは60年安保闘争。 安保改定にがっかりした新門さんは富山に帰った。その頃母親は町中で小料理屋を開いていた。大学に戻る木もなくなり母を手伝って過ごした。自分も独立してもやってゆけると思い独立。 詩を書いたり文学を志していたりで商売は素人だったので倒産。そのころ奥さんとの間に子どもが出来る。夫婦喧嘩が絶えず、ドライミルクが変えないと奥さんが投げつけた新聞紙の求人広告が目に入った。 冠婚葬祭業に入るきっかけがふと目にした新聞の求人広告だった。ここから納棺夫になってゆくが、私の文章より素晴らしいページを見つけたので、そちらを参照されたい。 ともあれ、久々に涙の流れた講演だった。 この人の今生での役割はこうだったのだなと思える講演でした。 帰宅後、早速アマゾンで『納棺夫日記』を購入、今日の昼に届く。 奥深い内容だ。 この一冊は是非読まれると良いかもしれない。 2011年 12月 10日
12月7日午後7時からのホツマツタヱ勉強会に参加した。
場所は、東洋大学白山第二キャンパスの教室だった。 根本君と午後3時30分に茨城をクルマで出発。 首都高の渋滞もあって到着は6時30分、学食でカツカレーを食べて教室に入ったのが6時45分。 30年ぶりの学食は綺麗で食事もおいしかった。 さて本日の講師は、池田満氏。 ![]() 90分の授業はあっという間に過ぎた感じだった。 聴講者は40名ほどだったろうか。 私は一番前で聴講したが、はじめの頃は少ないと感じたが、終わりに全体を見回してみると倍ぐらいに感じた。 日本はどうあるべきか。 明治の日本人、新渡戸稲造は日本人の道徳観を『武士道』で表現した。 しかし、もっと根源を遡ればトノヲシテに行き着く。 それはホツマツタヱが昭和41年に発見されて、松本善之助氏、池田満氏らが研究を重ねた結果として、導き出されたのだった。 ヲシテ文字そのものも素晴らしい哲学で表された文字なのだった。 詳細は池田先生のホームページをご覧いただくとして、学問の府で研究者が少しずつではあるが出てきていることは暁光である。 それにしても良い時代になった。 東京の大学で行われる市民講座に茨城から気楽にゆける時代になったのだから。 2011年 12月 02日
今朝の致知メルマガより
不平不満・愚痴・悪口・文句・泣き言を言わないと決めているのに忘れることもある。 そんな自分に三浦綾子氏の言葉がずしんと響いた。 ────────────────────────────────── 「人間の悲しい性」 三浦綾子(作家) 『人間学入門』より http://www.chichi.co.jp/book/ningengaku_guide.html ───────────────────────────────── これは時折、講演で話すんですが、 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。 私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。 大事にしていたものや、高価なものを取られても、 生活を根底から覆(くつがえ)されるような被害でない限り、 いつかは忘れます。 少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために 自殺した話はあまり聞かない。 だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や 少年少女の話は、時折、聞きます。 「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても 三杯も食べるのよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨(ふんがい)し、 その後一切、食べ物を拒否して死んだ、という話があります。 それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に 強烈なショックを受けた時に生まれる確率が高いと聞いたことがありますが、 ある妻は小姑(こじゅうと)に夫の独身時代の素行を聞き、 さらに現在愛人のいることを知らされた。 それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。 この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、 生まれたのは精神薄弱児だったそうです。 恐ろしい話です。私たちの何気なく言う悪口は人を死に追いやり、 生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。 泥棒のような単純な罪とは違うんです。 それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、 また、聞いています。そしてああきょうは楽しかった、と帰っていく。 人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性(さが)です。 もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、 怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。 自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口を きかなくなるのではないでしょうか。 自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が立つはずです。 そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話をいとも楽しげに語る。 私たちは自分を罪人だとは思っていない。 罪深いなどと考えたりしない。 「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。 私たちはたいていそう思っています。 それは私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。 「人のすることは大変悪い」「自分のすることはそう悪くない」。 自分の過失を咎(とが)める尺度と、 自分以外の人の過失を咎める尺度とはまったく違うのです。 一つの例を言いますとね、ある人の隣家の妻が生命保険の セールスマンと浮気をした。彼女は、「いやらしい。さかりのついた猫みたい」 と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。 何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。だが彼女は言った。 「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。恋愛って美しいものねぇ」 私たちはこの人を笑うことはできません。 私たちは自分の罪が分からないということでは、この人とまったく同じだと思います。 …………………………………………………………………… 『人間学入門』より、三浦綾子氏の名言 …………………………………………………………………… 九つまで満ち足りていて、 十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、 人間はまずその不満を真っ先に口から出し、 文句をいいつづけるものなのだ。 自分を顧みてつくづくそう思う。 なぜわたしたちは不満を後まわしにし、 感謝すべきことを先に言わないのだろう。 三浦綾子 2011年 12月 02日
12月4日からNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第3部が始まる。
司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』を読んだのは5年前だったろうか。 国分秀男先生の講演で先生が最も好きな本はと問われて即答されたのが『坂の上の雲』だった。 それで私も読む気になり早速本屋に行ってみると文庫本で8巻もあるのでびっくりしたが、買って読み始めると夢中になって読んだことを覚えている。 この本が端緒となって近現代の歴史を勉強してみようという気になった。 そして判ったことは、学校で習った近現代の歴史とは全く異なる世界があることを知った。 (もっとも歴史の授業は古代から始まって近現代の頃になると3学期も終わりに近づきそれほど記憶に残っていない) 1571年10月7日レパントの海戦でヨーロッパ連合軍がオスマン帝国軍を破って以来、白人種が世界を席巻し、333年後に日露戦争で日本がロシアに勝利するまで有色人種は一度も勝っていない。 1905年(明治38年)の日露戦争における日本の勝利は、世界史の中でも極めてエポックメイキングな出来事だったのである。 当時はまさに帝国主義全盛の時代である。 アメリカがハワイを併合したのは1898年(明治31年)。 フィリピンは1570年にスペインがマニラを征服し1898年からはアメリカが1946年まで統治している。 帝国主義が終焉を迎えるのは、1945年大東亜戦争が終わった後のことである。 文明の発展は素晴らしいことである。 ネット社会になっていなかったら、簡単に情報を得ることも難しかったに違いない。 人類の歴史は間違いなく良い方向に向いていると確信する。 100年前、200年前から比べたら間違いなく良い世の中になっているし、10年前、20年前と短期的に見ても良い方向に向かっていると思う。 スペシャルドラマ『坂の上の雲』楽しみだ。 2011年 12月 01日
今年の1月1日から『ありがとう』を言い続けて、昨日(11月30日)で91万回を数えました。
今年も100万回を達成できそうです。 言葉が人生をつくる。 そう考えると、マイナス言葉を話すよりもプラス言葉で埋め尽くしたい。 プラス言葉の中でも最強の言葉は、『ありがとう』だと小林正観さんは仰っていた。 正観さんは生前三千万回は、『ありがとう』を言ったと仰っていた。 昨年暮れにサイババから感謝状が届いたそうだ。 全く面識もない正観さんに、釈迦の教えを明確に伝えてくれているとの感謝の意で送ったそうだ。 それがサイババの最後の仕事になったらしい。 私はまだほんの十分の一。 それでも私にも奇跡は起きている。 三千万回言い続けたときにどんな奇跡と出会えるか楽しみだ。 2011年 11月 28日
池田満先生が日本固有種のミカンが筑波山の麓にあると仰っていたのを思い出して行ってきました。
旧真壁町酒寄地区に日本列島では北限のみかん園が十数軒ありました。 調整池つくし湖からつづら折りの山道を登ってゆくと眺めが一番良いところでクルマを止めました。 酒寄進みかん園でした。 いつも見慣れている温習みかんの半分ぐらいの大きさのふくれ(福来)みかんがそれです。 常陸風土記にも記載されており、池田先生は「カクの実」とも仰っています。 この旧真壁町はイサナギ、イサナミが新婚時代を過ごしたイサ宮があったところだと私は推測しています。 というのも、この酒寄地区から旧真壁町伊佐々まではクルマで10分ぐらいの所であることが解ったのです。 みかん園の売り子のおばさん達は江戸時代からみかんを栽培していると言っていましたが、もっともっと古くからあったことは知る由も無しでした。
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