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歴史は虹を見るような物

歴史は虹のようなものだ」・・・イギリスの学者、オーエン・バーフィールド氏がこのように述べています。上智大学名誉教授の渡部昇一氏はこのバーフィールド氏の比喩を次のように解説しています。

「彼は『歴史的事実』と『国史』すなわち一国の共同表象になる歴史を区別した。歴史的事実は中央、地方、対外の出来事などなど無数にある。しかしそこに虹を見ようとするなれば、特定の視点と距離が必要である。雨が上がったからといってどっちを向いても虹が見えるものではない。視線の方向が重要である。また虹をもっとよく見ようとして近づけばよりよく見えるものでもない。虹にあまり近づくと虹は消えてしまう。つまり国史というのは無数の水滴の中に虹を見ようとする行為に似ていて、無数の歴史的事実の中に、その国民の共通認識となるような虹を見ようとする行為というべきものなのである」

無数の歴史的事実の中には良いこと悪いこと、光もあれば影もある、様々ありますが、それらを一定の距離、方向から見れば虹が見えるというものです。これは大切なことでしょう。日本人は無数の歴史的事実の中から日本人の心に「負」となるような面ばかり見せられ、プロパガンダを本当のことのように教えられて、そして「虹」を見せないように統制されてきました。戦前は全部真っ暗とでもいうように教えられてきました。「ジパノフォビア」という自信喪失、自己嫌悪、自虐を好み、寂しく自国を嘲笑する日本国民になってしまっています。かつてのスペイン大帝国が没落したのはこの自虐史観に因るものでした。


昭和34年生まれの私は、まさに戦後の教育を受けてきた結果として、戦前の日本は悪いことをやってきたと思い込んでいました。いわゆる自虐史観に陥っていました。ネット社会になり、色々な情報に接する内に、そうではない歴史があるのだと気付くことができました。

この事を、友人、知人に喜んで話しても、初めのうちは皆、拒絶反応を示しました。
戦争は良くないの一点張りで、どうして戦争になったか、俯瞰的に歴史を見ることができなくなっていました。

私達は、戦争のことばかりか過去の偉人達のことも教科書で学ぶことが少なかったと思います。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった著名な人ではない中にも、偉業を成し遂げた日本人は数多くいます。

今朝の「日本の心を伝える会」のメルマガにも素晴らしい話がありましたので紹介させていただきます。


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┃1┃稲むらの火
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事件が起こった頃、五兵衞の大きな草葺(くさぶき)の家は、一つの湾を見おろした小さな高台の上に建っていました。
この高台は、小さい段々の水田が浜の方へと並んでいて、三方は山に取り巻かれています。

このあたりの土地は、海に向って、その山の腹から浜辺まで、えぐりとったようになっている、湾です。

海の方から見ると、細い、白いうねうねした道が、段々の田を左右にわけて、下の村から五兵衛の家へと登っています。
道の下のほうには、湾に沿って90ばかりの草葺と、一つの神社とが並んでいます。


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ある日の夕方です。

五兵衛は、下の村の祭りの用意を、自分の家の縁側(えんがわ)から眺めていました。
その年は非常に稲の出来がよかったので、氏神で盛んな豊年祭が行われることになったのです。

老人は、村の屋根の上にひるがえっている大幟(おおのぼり)や、竹の竿(さお)についた祭提灯(まつりちょうちん)や、神社の森影に見える飾り行燈(あんどん)や、派手な揃い(そろい)を着た若い人たちの群を見ることができました。

その時五兵衛と一緒に居たのは、小さい十歳の孫だけでした。
他の者は早くから村の方へ下りて行きましたが、少し加減の悪かった五兵衛老人は、孫と淋しく留守居をして居たのでした。


 *~*~*~*~*~*~*

その日は秋だというのに、何となしに蒸暑い日でした。夕方になるとそよ風が出ましたが、それでも何だか重くるしい暑さが残っていました。

そんな日にはとかく地震があるものでしたが、この日も間もなく地震が来ました。
その地震は、別に驚くほどのものではありませんでした。

しかしこれまで幾百度となく地震を経験している五兵衛老人には、変に思われました。
長い、のろい、ゆったりとした揺れようでした。

多分極めて遠い土地の大地震の余波のようでした。
家はきしみながら、幾度か穏やかに揺れて、また元の静けさに返りました。


地震が終ると、老人の鋭い考え深い眼は、気ぜわしそうに下の村を見ました。

ちょうど、何もわからない所で、何とはなしに少し変だという感じに、思わずある一方に気が取られるように、老人には、何となく沖合の方に、ただならぬ事があるように思われたのです。

立上って海を眺めました。
海は不意に暗くなって、何だか風と反対に波が動いているようでした。
波は、沖へ沖へと走っていました。

たちまちのうちに、下の村でも、この妙な出来事に気が付きました。
先の地震を感じた人は一人もなかったのですが、この海の動きには、皆が確かに驚きました。

老人の眼にも、村の大勢が浪際(なみぎわ)へ浪際へと走るのが見えました。

誰もかって知らないほど、海水が引きはじめました。
これまで知られなかった肋骨(ろっこつ)のやうな畦(あぜ)のある砂の広場や、海草のからんでいる大きい岩底が、見るまにあらわれて来ました。

が、村の人々は、この意外な引潮が何を意味するのかは知らないようでした。


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五兵衛自身も、こんな有様を見たのは初めてでした。
しかし、幼い時に父が話したことがふと胸に浮んで来ました。

何百年の前にあったという伝説でも彼は知っているのでした。
彼には海がどうなるのかが解ったのです。


たぶんこの時、五兵衛老人の咄嗟(とっさ)に考えたことは、下の村へ孫を使にやるにかかる時間の事であったことでしょう。山のお寺の僧に、大釣鐘(おおつりがね)を鳴らして貰(もら)うまでに要る時間のことであったことでしょう。

老人は孫に向って、大声で命じました。

「おい、忠、早く。 大急ぎだ。 松火(しょうか)をつけて来い!」
(注:松火=たいまつ)

松火は嵐の晩に使うために、海岸の村々ではどの家にもありました。
子供はすぐに持って来ました。

すると、老人はそれを掴(つか)んで、家から少し下った田に急ぎました。
そこには浜口一家の1年の労役の酬として、熟しきった稲の刈束が、堆(うずたか)く積んでありました。

老人はその近いものに火をかけました。
日に乾いた藁(わら)は、吹きあげる海風にどっと燃えあがりました。
老人は、走って第二の稲の山に火をつけました。
第三の山につけました。

一山、一山、たちまちに天を沖する大きな煙の渦が、幾條も幾條も合わさって空に高く渦巻きました。


孫の忠は青くなって、
「お祖父さん。お祖父さん。どうして。どうしたの。」と叫びましたが、五兵衛老人は答えようともしません。

彼はただ命の瀬戸にある下の村の四百人の事ばかり考えていたのでした。

忠は突然泣きだして、家の中へ駆けこみました。祖父が気が狂ったと思ったのです。


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老人は自分の家の最後の稲むらに火をつけると、その松火を投出ししました。
この炎に、山寺から鐘が鳴り初めました。

村の人々はこの鐘の響に、この煙の渦巻に浜辺から村を過ぎて、丘へ丘へと、蟻のむれのように登って来ました。


日は沈みかかっていました。
湾の皺(しわ)のある海底や、斑(まだら)に土色のある大きい砂原の広がりを、最後の夕映がぼんやりと照らしました。

波はまだ、沖へ沖へと走っていました。

実際は、老人の思ったほど長くたたないうちに、火消のための一隊が高台に着きました。

その二十人ばかりの村人は、すぐ稲むらの火を消しにかかろうとしました。
老人は手を挙げて止めました。

「うっちゃって置け。燃やして置け。大変だ。村中皆ここへ来るのだ。」


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村中の人々は追々と集まりました。
若い男たちや、子供が来ました。元気な女たちや娘なども来ました。
それから老人の大方も来ました。
しまいには、上からの合図に、子供を背負った母親たちも来ました。

が、次第に集まった人々は、やはり何事か知らずに、ただ燃えている稲と、老人の顔とを、不思議そうに眺めて居ました。日は沈みました。


「お祖父さんは気が違ったんだ。お祖父さんが火をつけたんだ。」

孫の忠はすすり泣きながら言いました。

「火をつけたのは俺だ。だが、村じゃみんな来たか?!」

老人が厳然と言いました。

村の組合のおもだった人たちや、家の主人たちは、人々の顔を見回したり、坂を上がって来るものを数へたりして言いました。

「はい、みんな居ます。でなくても、直ぐに参ります。一体どうしたのですか?」

「来た! 見ろ!」

老人は沖の方を指さして、力一杯の声で叫びました。

「来た。どうだ、おれはきちがいか? 見ろ!」


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黄昏(たそがれ)のうす明かりをすかして、一同は東の方を見ました。

そして薄暗い地平線の端に、まるで海岸のような細い長い一線を見ました。
それは見ているうちに太くなりました。線は広くなりました。

たちまちその長い暗がりは、堤防のように、そうして絶壁のやうに聳(そび)えて、鳥の飛ぶより早く進んで来ます。

押しかえしの波だったのです。


「津波だ!」と人々は叫びました。

海がおそろしく盛上がって、山々をとどろかす程の重さで、電をつんざいたような、泡沫とともに海岸にぶつかったとき、何ともいえぬ重い、強い、すべての叫び声を打ち消すような響きがしました。

一時は、雲のように坂の上へ突進して来た水煙のあらしの外には、何も見えなくなりました。
人々はうろたえながら、ただおびえました。

そして再び見直した時、人々は、家々の上に荒狂って走る、白い恐ろしい海を見ました。
その海は、うなりながら土地の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を引きちぎって退きました。

二度。三度。五度。
海は進んでは退き、又進みました。

しかしそのたびごとに、波は小さくなって、だんだん元の海へと帰って行きました。大風のあとのやうに荒れながら。


高台の上には、しばらく何の声もありませんでした。
一同は、下の村の荒廃を無言のうちに見つめていました。

投げ出された岩や、裂けて骨の出た絶壁のものすごさ。家や社がさらわれた跡には、海底からもぎ取られた海藻や砂利(じゃり)が放り出されいるむごたらしさ。

村は無い。田畑の大部分も無い。浜には家が一つも無い。
見えるのは、ただ沖の方に物狂はしく浮き沈みする藁屋根の二つ三つだけです。

死を遁(のが)れた恐ろしさと、家と財とを奪われた悲しさに、人々はただ茫然とするばかりでした。


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老人が再び言いました。

「稲に火をつけたわけは、あれだ」

人々は、自分の命が救われた事に気がつきました。
思わず地面に土下座して、五兵衛の前で涙にむせびました。
老人も少し泣きまた。嬉しさから、そして無理をした身体の苦しさから。

でもそのままでは居ませんでした。

「さあ、俺の家は村の家だ。お寺もある。皆しっかりしろ!」
彼は先に立って案内しました。人々はただ叫んだり、関の声を挙げたりしました。


それから村の困難は随分続きました。
しかし村はだんだんに回復しました。
それには老人の努力も大きいものでした。


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この物語の原作は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の、「A Living God(日本名「生神」)」です。

この物語は、戦前は小学5年生の国語の教科書に掲載されていました。

そしてこの物語のおかげで、地震のあと、海水が大きく引いたら、そのあとに津波が来る危険がある、ということを、多くの日本人が学びました。

平成16(2004)年に起きたインド・スマトラ沖地震(M9.3)では、大津波によっ22万人以上の死者が出ました。

タイのプーケット島では、当時、津波がやってきたときの様子が、テレビで日本でも数多く紹介されましたが、プーケットには、地震発生の2時間半後に巨大津波が到来しています。
津波の速度は、なんと時速700kmです。

平成17(2005)年1月に、大津波の被害後にジャカルタで開催された「東南アジア諸国連合緊急首脳会議」で、シンガポールのリー・シェンロン首相が、当時の小泉純一郎内閣総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、ほんとうか?」と尋ねたそうです。

残念ながら小泉総理(当時)は、戦後世代でこの話を知らず、東京の文部科学省に照会したけれど、誰も知らなかった。

このようなことで、日本の教育はほんとうによいのでしょうか。

by 8jyou | 2011-02-17 08:51 | 感動、発見