2009年 12月 21日
ニハリノミヤはどこにあったのだろうかホツマ辞典から引用する。
【ニニキネ 以下「ホツマ辞典」池田満著(展望社)より
十代アマカミの弟の方をニニキネと言う。
兄のホノアカリ(アスカミヤ)と同じく十代アマカミの位に即いた。
(これを二朝廷並立と呼ぶ)
当初ホノアカリが朝廷の後継となる予定だったが、ニニキネの人々に及ぼした功績があまりにも大きかったため、ニニキネが朝廷の本流になってゆく。
若い頃からニニキネは、祖父アマテルカミのお側にあって、薫育を得た。青年期に至ると、アマノコヤネとクシヒコの2人の忠臣を得て、その教育の成果が花と開いていく。
初めて治めるクニは今の茨城県の筑波山の付近で、ニハリノミヤを建てて政り事を執った。ここでの治世は人々の信頼を得て成功を収めたが、ニニキネはさらに次の仕事を考えて実行する。
それは灌漑事業を起こして稲作の安定と多収を計ることであった。まず、アマテルカミのお膝元のイセ(伊勢・志摩)での実証事業を成功させ、アマテルカミから全国を巡ってもよいとの許しを得る。】
さて、ニハリノミヤはどこにあったのだろうか。
池田満先生はブログの中で筑西市古郡だったと解説しています。
私、行ってきました。
まわりは畑作地帯です。石碑と解説文があるだけでした。

国指定史跡 新治郡衙跡

調査したのが昭和16年と18年というから大東亜戦争の真っ直中であった訳だ。戦争中にもかかわらず考古学的な調査をしていたことを考えると、当時の日本が軍国主義一色ではなかったと言えるのではないだろうか。
12ヘクタールに51棟の建物があったと書いてある。奈良時代の遺構との見解が書いてあるが池田先生はここをニハリノミヤがあったところだとしている。

写真では分かりにくいが現場に立ってみると小高い丘の広大な敷地であったことがうかがえる。
ニニキネさまはツクハノミヤから新築なったニハリノミヤへお移りになったと書いてある。
約半分のトサト(十里)来たところで、稲光を見ます。
今でも十里という地名が残っており、桑山神社もあります。

池田先生のブログでは十里神社と書いてあるが、子之神社と書いてあった。

私は、新治郡衙跡から逆に道をたどって十里まできた。約8㎞だった。
ここから約8㎞のところに伊佐々(イサザ)と言う字名の地がある。以前あるブログでイサミヤはここにあったのではなかろうかとの記事を見つけ、訪れた事があった。
小高い丘の上から西方を望む。イサ川(桜川)が流れ水田地帯が広がっている。

私は、ここから更に現在の筑波山神社へ向かった。距離にして約11㎞。
男体山に伊弉諾尊、女体山に伊弉冉尊が祀られていると書いてある。

山門には仁王像ではなく、右側には豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)、左側には倭建命(ヤマトタケルノミコト)の像が建っている。
おもしろいのは東国(木国)と書いてあることだ。木(キ)はヲシテではキ(東)ツ(南)サ(西)ネ(北)のキで東という意味。漢字で木と書いてしまうと意味が分からなくなってしまう。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)の像。ヤマトタケが本当の名前。ルがつくと意味が全く違ってしまう。

さて、ニニキネさまがツクハノミヤから約半分のトサトを通ってニハリノミヤへ行かれたと書いてあることを考えてみると、現在の筑波山神社はあまりにも遠いのです。
一方、伊佐々(イサザ)は距離的には一致します。
従って、イサミヤ、ツクハノミヤは当初は現在の伊佐々にあったのではないでしょうか。
現在の筑波山神社は時代が下ってから移されたと考えるのが妥当でしょう。
検証はこれからですが、ホツマツタヱの解読が進めば進むほど考古学的な検証も出来るでしょう。
古事記、日本書紀では解読できない世界です。

