2013年 08月 12日
盥((たらい)の水の例話欲心を起して水を自分の方にかきよせると、向うににげる。人のためにと向うにおしやれば、わが方にかえる。金銭も、物質も、人の幸福も亦同じことである。
致知9月号には、二宮尊徳から数えて7代目の子孫、中桐万里子さんが盥の水の例話を以下のように解説している。
金次郎の教えで有名な「たらいの水の話」というのがありますね。
水を自分のほうに引き寄せようとすると向こうへ逃げてしまうけれども、相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。
だから人に譲らなければいけないと。けれどもこの話には実は前段があるのです。
人間は皆空っぽのたらいのような状態で生まれてくる、つまり最初は財産も能力も何も持たずに生まれてくると。
そしてそのたらいに自然やたくさんの人たちが水を満たしてくれる。
その水のありがたさに気づいた人だけが他人にもあげたくなり、誰かに幸せになってほしいと感じて水を相手のほうに押しやろうとするんです。
そして幸せというのは、自分はもう要りませんと他人に譲ってもまた戻ってくるし、絶対に自分から離れないものだけれども、
その水を自分のものだと考えたり、水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚して、
足りない足りない、もっともっととかき集めようとすると、幸せが逃げていくんだというたとえ話だと教わったんです。
江戸時代末期に二宮尊徳先生は600もの村を再興しました。ただただ人々のために尽くした人生でした。亡くなるときには私有財産はほとんどもっていなかったそうです。
栞に「ほんとうに身につく金銭を得る人は、無欲の人である。大事業家は、無欲の人である。事業は欲心で左右されるようなものではない。ただせずにおられず、仕事そのものがすでに無情の喜び、無限の恵みであって、歓喜にみちて働く、そこに事業はおのずから成功し、金銭は自然に集まるのである。」
二宮尊徳先生ならば財閥といわれるほどの財をなしえたと言われていますが、その方向には進まなかった。
地上の価値観とは異なる世界に住んでいた。
何とスケールの大きな人だったのでしょう。

