今日(6月23日)は、結婚記念日。今年で25年になる。銀婚だ。
新婚旅行以来、二人だけの旅行は無かったように記憶している。
子供を4人も授かって子育てに明け暮れた25年だったような感じだ。
そこで、銀婚を祝って、シンガポールに二人で行ってきた。6月19日から22日までの4日間。
出発前成田空港にて

国立植物園にて

おきまりのマーライオンをバックに

マレーシア、ジョホールバルオプショナルツアー、文化村にて民族舞踊、右端にお釜ちゃん

ベイサンズガーデンにて

ベイサンズガーデンの夜景は美しかった。光のショウタイムあり、エレクトリカルパレードみたいだった。

レストランで食事をしながらのサプライズを用意していったが、ビールが進みすぎて酔っぱらってしまいホテルに帰ってから下記のレターを渡した。
銀婚旅行(久美子さんへ、感謝をこめて)
平成27年6月19日~6月22日
シンガポールの旅
思えば、今から25年前の平成2年6月23日、私たちは結婚しました。
その半年前に、見合いしたことが御縁のはじまりでした。
短いお付き合いの時間を経て結婚、両親と同居の新婚生活は私の経済力がないことが原因でしたが言い出せないままでした。本当に同居してくれてありがとう。
1年後に郁恵が誕生、2年後には隆太郎が生まれました。
親になれた喜びを今でも思い出します。生んでくれてありがとう。
その頃の私はJC(青年会議所)運動に夢中で家庭を顧みない生活でした。そればかりではなく、久美子さんへの思いやりに欠ける言動が多々あったことは否めません。久美子さんが真剣に離婚を考えていたことも後で知りました。ノー天気な私は奥様の気持ちも気にせず全くマイペースで人生を過ごしてきました。
40を過ぎてから和寛と陽祐を授かることもできました。2度目の子育ては慣れている反面、年齢的にも厳しいと感じましたが、夫婦の会話が今でも続いているのは子供たちのお蔭かと感謝しています。
子どもたちが健全に育っているのも久美子さんのおかげです。ありがとう。
45歳のころの会社経営は倒産寸前でした。和寛が小学校に入学する年の春、子どもの寝顔を見ながら、未来に対する不安と申し訳なさで胸がいっぱいになった夜もありました。自分が頑張らねば家族を路頭に迷わせることになる。そんなことは絶対にさせられない。久美子さんのお父さん、亡くなったお母さんにも顔向けができない。眠れぬ夜を何度も経験しました。
そんな時も、久美子さんは淡々と家事をこなし、平然と暮らしてくれていたことには勇気づけられました。ありがとう。
会社経営は今でも問題は山積みですが、ともに働いてくれているおかげで随分と助かっています。ありがとう。会社は社会の公器です。どんな形であれ、次世代に繋げてゆくのが私たちの責任だと今は思っています。今後とも、よきアドバイスをお願いします。
人生は出会いだと言われます。私にとって、久美子さんとの出会いは今生での最高の出会いです。25年は長かったようで短かったようで、よくこれまで来れたなと思います。本当にありがとう。
まっさんとエリーも人生は冒険だと言っています。これからも二人で冒険の旅を続けてゆきましょう。
銀婚にあたり、感謝をこめて、久美子さん、今までありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。
平成27年6月19日
亨より
新婚旅行以来、二人だけの旅行は無かったように記憶している。
子供を4人も授かって子育てに明け暮れた25年だったような感じだ。
そこで、銀婚を祝って、シンガポールに二人で行ってきた。6月19日から22日までの4日間。
出発前成田空港にて

国立植物園にて

おきまりのマーライオンをバックに

マレーシア、ジョホールバルオプショナルツアー、文化村にて民族舞踊、右端にお釜ちゃん

ベイサンズガーデンにて

ベイサンズガーデンの夜景は美しかった。光のショウタイムあり、エレクトリカルパレードみたいだった。

レストランで食事をしながらのサプライズを用意していったが、ビールが進みすぎて酔っぱらってしまいホテルに帰ってから下記のレターを渡した。
銀婚旅行(久美子さんへ、感謝をこめて)
平成27年6月19日~6月22日
シンガポールの旅
思えば、今から25年前の平成2年6月23日、私たちは結婚しました。
その半年前に、見合いしたことが御縁のはじまりでした。
短いお付き合いの時間を経て結婚、両親と同居の新婚生活は私の経済力がないことが原因でしたが言い出せないままでした。本当に同居してくれてありがとう。
1年後に郁恵が誕生、2年後には隆太郎が生まれました。
親になれた喜びを今でも思い出します。生んでくれてありがとう。
その頃の私はJC(青年会議所)運動に夢中で家庭を顧みない生活でした。そればかりではなく、久美子さんへの思いやりに欠ける言動が多々あったことは否めません。久美子さんが真剣に離婚を考えていたことも後で知りました。ノー天気な私は奥様の気持ちも気にせず全くマイペースで人生を過ごしてきました。
40を過ぎてから和寛と陽祐を授かることもできました。2度目の子育ては慣れている反面、年齢的にも厳しいと感じましたが、夫婦の会話が今でも続いているのは子供たちのお蔭かと感謝しています。
子どもたちが健全に育っているのも久美子さんのおかげです。ありがとう。
45歳のころの会社経営は倒産寸前でした。和寛が小学校に入学する年の春、子どもの寝顔を見ながら、未来に対する不安と申し訳なさで胸がいっぱいになった夜もありました。自分が頑張らねば家族を路頭に迷わせることになる。そんなことは絶対にさせられない。久美子さんのお父さん、亡くなったお母さんにも顔向けができない。眠れぬ夜を何度も経験しました。
そんな時も、久美子さんは淡々と家事をこなし、平然と暮らしてくれていたことには勇気づけられました。ありがとう。
会社経営は今でも問題は山積みですが、ともに働いてくれているおかげで随分と助かっています。ありがとう。会社は社会の公器です。どんな形であれ、次世代に繋げてゆくのが私たちの責任だと今は思っています。今後とも、よきアドバイスをお願いします。
人生は出会いだと言われます。私にとって、久美子さんとの出会いは今生での最高の出会いです。25年は長かったようで短かったようで、よくこれまで来れたなと思います。本当にありがとう。
まっさんとエリーも人生は冒険だと言っています。これからも二人で冒険の旅を続けてゆきましょう。
銀婚にあたり、感謝をこめて、久美子さん、今までありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。
平成27年6月19日
亨より
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by 8jyou
| 2015-06-23 11:37
| 感動、発見
┏┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃┃致知出版社の「人間力メルマガ」 2015.6.12(Fri)
┗┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今年、数えで103歳を迎えた
大久保あい子さん。
かつて満洲の地で敗戦という苦汁を嘗め、
日本に戻ってからは倫理研究所創始者・丸山敏雄に私淑し、
倫理研究所参事としていまも活動を続けています。
そんな大久保さんが語った
「家庭も仕事も劇的に円満になるヒント」とは――。
■■□―――――――――――――――――――□■■
「家庭も仕事も劇的に円満になるヒント」
大久保あい子(倫理研究所参事)
※『致知』2015年7月号
特集「生きる力」より
□□■―――――――――――――――――――■□□
――大久保さんが倫理研究所に出合われたのはいつ頃ですか。
あれは昭和29年のことでした。
近所で「倫理講演会」と書かれたポスターを見たんですよ。
何か惹かれるものがあって
会場になっていた近所の五軒小学校に行ってみたら、
テーマは「子育ての秘訣」でした。
その内容がとてもよかったんですよ。
当時は4人の子供の母親で、子供を立派に育て上げたい
という思いがすごく強くありましたから、
ここで勉強しようとすぐに倫理研究所に入れていただいたんです。
そうしたら倫理というのは、とにかく実践がすべてで、
まずは早起きが大事だというので、
毎朝午前5時から1時間行われる「早朝講座」に
通い始めることにしました。
――毎日ですか。
そう、年中無休です。
まだ暗いうちに家を出て勉強したら、
すぐに家に帰って子供のお弁当をつくって主人を送り出す、
という新しい生活が始まりました。
早朝講座で子育てについて学んだことはいくつかあって、
その一つが「子は親の心を実演する名優である」というものでした。
ですから子供にあれこれ要求するのではなく、
自分の生活態度を引き締めようと心掛けました。
それから、夫婦仲がとびきりよいことも大切で、
夫婦の呼吸がぴったり合っていれば
子供は放っておいても大丈夫だということも学びましたね。
もう一つ大切なことがあって、
それは親自身が親の「良き子」に返るべし、ということ。
でもこれを実践するには
最初は抵抗がありましたけど、努力しました。
――お姑さんとの関係ですね。
当時既に義父母は亡くなっていたのですが、
すぐには気持ちの整理はつきません。
でも子供たちの教育のためだと、
お墓参りをしようと思い立って毎日続けたり、
義父母の偉かったところをいろいろと思い浮かべているうちに
だんだんと、わだかまりが消えていったように思います。
結局は子供のできが悪いのは親が悪いからそうなるので、
ずっと自分の勉強でしたね。
親が先に勉強すれば、子供も勉強するんです。
おかげさまで子供たちはそれぞれ立派に育ってくれたので、
それが一番嬉しいですよ。
―― 一つひとつの学びを実践に結びつけられているのが
素晴らしいですね。
やるべきことは、意地でもやり遂げるんです。
それからどんなに忙しくて疲れていても
「疲れた」って言わないと決めていました。
言葉は恐ろしいですよ。
「疲れた」と言った途端に本当に疲れるんですから。
昨年まで、秋津書道の先生として指導いただいておりました。
戦後、満州から日本に帰ってくるときのお話は、何度聞いても胸に詰まります。
子供たちの命を守り、戦後は子供たちの教育のためにご自身が学び続けました。
人は、自分以外の誰かのために生きるとき、生きる力が強くなるような気がします。
自分のために生きているときには、すぐに挫折してしまうとも感じます。
不思議ですね、宇宙の法則は。
┃┃致知出版社の「人間力メルマガ」 2015.6.12(Fri)
┗┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今年、数えで103歳を迎えた
大久保あい子さん。
かつて満洲の地で敗戦という苦汁を嘗め、
日本に戻ってからは倫理研究所創始者・丸山敏雄に私淑し、
倫理研究所参事としていまも活動を続けています。
そんな大久保さんが語った
「家庭も仕事も劇的に円満になるヒント」とは――。
■■□―――――――――――――――――――□■■
「家庭も仕事も劇的に円満になるヒント」
大久保あい子(倫理研究所参事)
※『致知』2015年7月号
特集「生きる力」より
□□■―――――――――――――――――――■□□
――大久保さんが倫理研究所に出合われたのはいつ頃ですか。
あれは昭和29年のことでした。
近所で「倫理講演会」と書かれたポスターを見たんですよ。
何か惹かれるものがあって
会場になっていた近所の五軒小学校に行ってみたら、
テーマは「子育ての秘訣」でした。
その内容がとてもよかったんですよ。
当時は4人の子供の母親で、子供を立派に育て上げたい
という思いがすごく強くありましたから、
ここで勉強しようとすぐに倫理研究所に入れていただいたんです。
そうしたら倫理というのは、とにかく実践がすべてで、
まずは早起きが大事だというので、
毎朝午前5時から1時間行われる「早朝講座」に
通い始めることにしました。
――毎日ですか。
そう、年中無休です。
まだ暗いうちに家を出て勉強したら、
すぐに家に帰って子供のお弁当をつくって主人を送り出す、
という新しい生活が始まりました。
早朝講座で子育てについて学んだことはいくつかあって、
その一つが「子は親の心を実演する名優である」というものでした。
ですから子供にあれこれ要求するのではなく、
自分の生活態度を引き締めようと心掛けました。
それから、夫婦仲がとびきりよいことも大切で、
夫婦の呼吸がぴったり合っていれば
子供は放っておいても大丈夫だということも学びましたね。
もう一つ大切なことがあって、
それは親自身が親の「良き子」に返るべし、ということ。
でもこれを実践するには
最初は抵抗がありましたけど、努力しました。
――お姑さんとの関係ですね。
当時既に義父母は亡くなっていたのですが、
すぐには気持ちの整理はつきません。
でも子供たちの教育のためだと、
お墓参りをしようと思い立って毎日続けたり、
義父母の偉かったところをいろいろと思い浮かべているうちに
だんだんと、わだかまりが消えていったように思います。
結局は子供のできが悪いのは親が悪いからそうなるので、
ずっと自分の勉強でしたね。
親が先に勉強すれば、子供も勉強するんです。
おかげさまで子供たちはそれぞれ立派に育ってくれたので、
それが一番嬉しいですよ。
―― 一つひとつの学びを実践に結びつけられているのが
素晴らしいですね。
やるべきことは、意地でもやり遂げるんです。
それからどんなに忙しくて疲れていても
「疲れた」って言わないと決めていました。
言葉は恐ろしいですよ。
「疲れた」と言った途端に本当に疲れるんですから。
昨年まで、秋津書道の先生として指導いただいておりました。
戦後、満州から日本に帰ってくるときのお話は、何度聞いても胸に詰まります。
子供たちの命を守り、戦後は子供たちの教育のためにご自身が学び続けました。
人は、自分以外の誰かのために生きるとき、生きる力が強くなるような気がします。
自分のために生きているときには、すぐに挫折してしまうとも感じます。
不思議ですね、宇宙の法則は。
#
by 8jyou
| 2015-06-12 09:01
| 倫理法人会
2月11日から3日も過ぎたところで、建国記念の日について書こう。
改めて、建国記念の日についてネットで調べてみると、おもしろかった。
その1 建国記念の日という祝日はいつできたか。
戦前は、紀元節と言っていたが、戦争で負けてからGHQの意向でしばらくはこの祝日はなかった。
昭和41年に祝日法を改正して昭和42年2月11日から適用された。
「ホツマツタヱが松本善之助先生によって発見されたのが昭和41年だった。」
その2 建国記念日ではなくて建国記念の日と「の」がつくのはなぜか。
紀元節を復活させようとしたが社会党などの反対もありなかなか法案成立に至らなかった。そこで建国記念の日とのを入れることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”とも解釈できるようにして法案は成立した。
そこで、紀元節の由来を調べてみると
8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。
しかし、明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め同日には(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた。1873年1月29日は、旧暦(太陰太陽暦:天保暦)の明治6年1月1日をそのまま新暦(太陽暦:グレゴリオ暦)に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。
紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。
そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした。
一方、神武天皇の即位の年代の根拠は、
明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。
とあり、あくまでも推測の域を出ないことが解った。
ホツマツタヱを知ると日本書紀は古事記よりは正しく古文献を参照しているが、それでも正しく伝わっていない事が解る。
せっかく、ホツマツタヱをはじめとするヲシテ文献が発見されて、研究が進み、本当の日本の姿が解読されてきているのだから、国学者や神社の関係者の方々には素直にヲシテ文献に向き合っていただければと思う。
改めて、建国記念の日についてネットで調べてみると、おもしろかった。
その1 建国記念の日という祝日はいつできたか。
戦前は、紀元節と言っていたが、戦争で負けてからGHQの意向でしばらくはこの祝日はなかった。
昭和41年に祝日法を改正して昭和42年2月11日から適用された。
「ホツマツタヱが松本善之助先生によって発見されたのが昭和41年だった。」
その2 建国記念日ではなくて建国記念の日と「の」がつくのはなぜか。
紀元節を復活させようとしたが社会党などの反対もありなかなか法案成立に至らなかった。そこで建国記念の日とのを入れることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”とも解釈できるようにして法案は成立した。
そこで、紀元節の由来を調べてみると
8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。
しかし、明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め同日には(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた。1873年1月29日は、旧暦(太陰太陽暦:天保暦)の明治6年1月1日をそのまま新暦(太陽暦:グレゴリオ暦)に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。
紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。
そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした。
一方、神武天皇の即位の年代の根拠は、
明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。
とあり、あくまでも推測の域を出ないことが解った。
ホツマツタヱを知ると日本書紀は古事記よりは正しく古文献を参照しているが、それでも正しく伝わっていない事が解る。
せっかく、ホツマツタヱをはじめとするヲシテ文献が発見されて、研究が進み、本当の日本の姿が解読されてきているのだから、国学者や神社の関係者の方々には素直にヲシテ文献に向き合っていただければと思う。
#
by 8jyou
| 2015-02-14 10:05
| ホツマツタヱ
『一年の計は元旦にあり』だが、早一月も終わりとなってしまった。
今年は、断捨離を目標として掲げた。
それを色紙に書こうと思って、まだできていない。
強く決断していないからだ。
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないと心に決めているのだが、心の中で泣き言を言っている自分がいるのに気づいた。
決断しないとはそういうことだったのだ。
五戒(不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句)を言わないことを続けるには、よほど注意が必要だ。
今日中に、色紙に目標を書こう。
明朗は万善の元。
今年は、断捨離を目標として掲げた。
それを色紙に書こうと思って、まだできていない。
強く決断していないからだ。
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないと心に決めているのだが、心の中で泣き言を言っている自分がいるのに気づいた。
決断しないとはそういうことだったのだ。
五戒(不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句)を言わないことを続けるには、よほど注意が必要だ。
今日中に、色紙に目標を書こう。
明朗は万善の元。
#
by 8jyou
| 2015-01-31 12:23
| 倫理法人会
12月8日と言う日には、覚醒をもたらすエネルギーがあるのかもしれない。
今から73年前、(1941年)昭和16年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲した日である。
3年6ヶ月に及ぶ大東亜戦争が勃発した日だ。
近世からの歴史を俯瞰してみると、1492年コロンブスのアメリカ大陸発見以来、白人による有色人種に対する植民地化、奴隷化が4世紀にわたって続いてきた。
大東亜戦争以前に有色人種の国で独立を保っていたのは日本とタイだけだった。しかし、タイは英のインド、仏のベトナムの植民地観の緩衝地として、わざと植民地化されない状態だった。
有色人の国で唯一の独立国は日本だけだったのだ。
幕末に開国して世界とつながりを持った日本は白人国家が日本を侵略しようと迫っている危機感を感じ取り、富国強兵策をとって、明治37年日露戦争に勝利した。
もし日露戦争で日本が負けていたら、人類は白人支配が完成し有色人種は奴隷のままだったろう。
そう考えると、日本人が人類史に果たした役割は計り知れない。
第1次大戦後、国際連盟において日本は人種差別撤廃を提案した。
しかし、議長であるアメリカのウィルソン大統領によって退けられてしまった。
そして、大東亜戦争が始まり日本は負けた。
しかし、有色人種の国は次々と独立を果たしていった。
そのきっかけは、12月8日であった。
もう一つ、今から二千数百年前、35才の12月8日に釈迦が悟りを開いたとの言い伝えがある。
多くの国の寺院で成道会として法要が営まれている。
世界の三大宗教の一つ、仏教の開祖釈迦をウィキペディアで検索してみると、29才の12月8日夜半に出家したと書いてあった。
悲しい出来事も起こっている。1980年12月8日ジョン・レノンが銃弾に倒れた日だ。
『イマジン』が描く世界は人類の理想郷だろう。
今から73年前、(1941年)昭和16年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲した日である。
3年6ヶ月に及ぶ大東亜戦争が勃発した日だ。
近世からの歴史を俯瞰してみると、1492年コロンブスのアメリカ大陸発見以来、白人による有色人種に対する植民地化、奴隷化が4世紀にわたって続いてきた。
大東亜戦争以前に有色人種の国で独立を保っていたのは日本とタイだけだった。しかし、タイは英のインド、仏のベトナムの植民地観の緩衝地として、わざと植民地化されない状態だった。
有色人の国で唯一の独立国は日本だけだったのだ。
幕末に開国して世界とつながりを持った日本は白人国家が日本を侵略しようと迫っている危機感を感じ取り、富国強兵策をとって、明治37年日露戦争に勝利した。
もし日露戦争で日本が負けていたら、人類は白人支配が完成し有色人種は奴隷のままだったろう。
そう考えると、日本人が人類史に果たした役割は計り知れない。
第1次大戦後、国際連盟において日本は人種差別撤廃を提案した。
しかし、議長であるアメリカのウィルソン大統領によって退けられてしまった。
そして、大東亜戦争が始まり日本は負けた。
しかし、有色人種の国は次々と独立を果たしていった。
そのきっかけは、12月8日であった。
もう一つ、今から二千数百年前、35才の12月8日に釈迦が悟りを開いたとの言い伝えがある。
多くの国の寺院で成道会として法要が営まれている。
世界の三大宗教の一つ、仏教の開祖釈迦をウィキペディアで検索してみると、29才の12月8日夜半に出家したと書いてあった。
悲しい出来事も起こっている。1980年12月8日ジョン・レノンが銃弾に倒れた日だ。
『イマジン』が描く世界は人類の理想郷だろう。
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by 8jyou
| 2014-12-08 19:29
| 感動、発見

